第10話 神さま、どうかお願いします

 やってしまった。


 後悔ばかりが募り、次にどうするべきか、なにも浮かんでこなかった。


「お前のところのクソガキ、名前は戸出一二三だな。誘拐させてもらった、返してほしかったら身代金を持ってこい!」


 怒鳴るような男の声。


 放心している間に、男は家に電話をかけたようだ。


 電話の向こうからは、叫ぶような、泣くような、女性の声が聞こえた。


 多分、お母さんだ。


 俺のランドセルの内側を見て、電話をかけたのだから、当たっているだろう。


 ただ、お母さんの声じゃなかった。


 正確には、いつも聞いているお母さんの優しい声、それとは別物だった。


「午後九時、コンテナが広がった港に金を持ってこい。……そうだ、そこだ。わかってると思うが、サツを呼んだら、このガキの命はない。……ああ、言う通りにすれば、ガキは解放してやる」


 しばらく会話が続き、通話は終了した。


 時計を見る――午後八時。


 まだ時間がある。


 まだ力も余っている。


 なにがどうなっているのかさっぱりだが、お母さんが危ない気がした。


 こんなところで肩を落としている暇はない。


 生まれる前に病気で命を落としたお父さんから、俺宛の手紙をもらっていた。


 最後の手紙だった。


 そこに書かれていた忘れられない言葉――お母さんは、一二三が守れ。


 そうだ、そうなんだ。


 俺が守るんだ、俺しかいないんだ。


 ……それなのに、なにも考えが湧かない。


 身動きが取れない、会話もできない、出口もわからない。


「少し早いが、行くか」


 そう言って、男は俺を引きずった。


 結局、考えたことが無駄だった、脱出できる時間すらなかった。


 アパートを出て、車に乗せられ、男は目的地へと向かった。


 到着するまでの間、悪いものを見た。


 それは、拳銃だった――当時はエアガンなどで遊んだことがあったため、危険なものであるという認識はあったが、それ以上にプラスチックとは異なる重厚な材質が、それを扱う男の奇異な表情が、命をも奪いかねない代物だと感知させた。


 辺りがすっかり暗くなった頃、車は停止した。


「まだ来てないな……いや、違ったか」


 にやりと不敵な笑みを浮かべた男は、車からゆっくり降り、助手席側のドアを開き、俺を引きずり出した。


 暗くともはっきり見えた――お母さんだ。


「一人で来ているな?」


「はい。一二三を返してください」


「それは、お前次第だ」


「お金は持ってきました」


「目の前に置け」


「先に一二三を返してください!」


 お母さんが声を荒げると、男は、


「殺すぞ?」


 と言って、パーカーのポケットから、拳銃を取り出した。


「わ、わかりました」


 お母さんは、指示通りにお金を地面に置いた。


「馬鹿だな、お前」


 男は、お母さんに拳銃を向けた。


 身動きがとれないなりに、俺は飛びかかるように突進した。


「てめえ! なにをしやがる!」


 尻もちをついた男は、こちらに拳銃を向けた。


「やめてっ! その子だけは、一二三だけは、勘弁してください!」


「こいつだって、サツが俺を捕まえる足がかりになるかもしれない。悪いな」


 死ぬと思った。


 いっそのこと、一緒に死んだ方が、良かったのかもしれない。


 次の瞬間、お母さんは俺に覆い被さるようにして身を丸め――撃たれた。


 突然の出来事に男は混乱した。


 覚悟がなかったのか、小心者だったのか、男は急いで車を出した。


 涙が溢れ出した。


 俺は、お父さんとの約束を破った。


 俺は、お母さんを守れなかった。


 それでも、お母さんは、いつものように笑っていた。


 お母さんは、優しく笑っていた。


 最期の時まで、優しく笑っていた。


 無力だった俺は、願うしかなかった。


 弱い俺は、願うしかなかった。


 奇跡を――願うしかなかった。


 泣きながらの懇願だった。


 神さま、お母さんを助けて。


 神さま、お願いします。


 神さま、一生のお願いです。


 神さま、俺の命はもういりません。


 だから、どうか助けて――神さま。

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