第9話 取り返しのつかない過失
シャワーをさっと浴び、俺は眠りに入った。
すぐに眠れた。
過去のことも、神宮が嘆願書を飲み込んだ瞬間も、忘れてしまいたくて、逃げるように眠りに入った。
俺には、昔――お母さんがいた。
お母さんは、今も心の中に存在する――だけど、実体はこの世にはもうない。
まだ小学校に入学した頃だった。
まだ物心が付き始めた頃だった。
まだ――まだ家族はこれからだった。
その日は、お母さんと一緒にゲーム機を買う約束をしていた。
はっきりと覚えている――昼には雲がかかり、下校前には冷たい雨が降り出していた。
慣れない通学路を歩いている時に、終わりの始まりを迎えてしまった。
電信柱の陰から、知らない、大人の男が現れたのだ。
周囲には他の歩行者はいなかった。
平然と通り過ぎようとしたが――ガムテープで口を塞がれ、体を縄で拘束され、車で連れ去られてしまった。
自分の身になにが起こっているのか、当時の俺には即座に理解できなかった。
車に乗ってから時間が経ち、俺はお母さんから耳にタコができるほど言われていたことを思い出していた。
『ひーくん。いい? 知らない人には付いていかないこと!』
その言葉で、良からぬことに巻き込まれたのかもしれないと勘づくことができた。
車窓からの景色が、見たことのない街に変わった頃、俺は恐怖に怯えていた。
お母さんに怒られてしまうかもしれない。
お母さんにゲーム機を買ってもらえないかもしれない。
お母さんに――二度と会えないかもしれない。
思考は絶望に支配された。
悪い考えを押しのけるように、必死に体を揺らし、声にならない声を上げた。
すると、運転席の男は、助手席に座る僕の髪を掴んだ。
「黙れクソガキ! 黙らねえと、お前の大好きなママに会えなくなるぞ!」
言葉は、聞こえた。
言葉は、理解できた。
言葉に、納得はできなかった。
慌てふためく俺の鳩尾を、男はグーで殴ってきた。
その瞬間、激しい痛みをお腹の奥で感じた。
痛い、痛すぎる、苦しい。
だけど、痛みよりも、息ができないことの方がよっぽど苦しかった。
過呼吸になって気が付いた――なんの感慨もなく行っていた呼吸の尊さに。
しばらく苦しさは続き、俺は気を失った。
意識を取り戻した時には、見知らぬ家の中に連れ込まれていた。
男は、冷静ではなかったと思う、慌てていたと思う。
気が立っていたせいか、目を覚ました俺に気付くと、すぐさま刃物を首に突き立ててきた。
「クソガキ! 家の電話番号を教えろ!」
命令をしてくるが、男はガムテープを剥がしてくれず、話すことはできなかった。
だが、教えなければ、首元の刃をどうされるかわからない。
この時、俺は子どもながらに、冷静に思考できたと思った――ランドセルの内側に住所と電話番号が書かれていたことを思い出し、ジェスチャーで伝えられたのだ。
でも、振り返ってみれば、この個人情報を教えてしまうという行為が、男の計画を後押ししてしまったのかもしれないと思う。
「なんだよ、あるんじゃねえか。クソガキが、ビビらせやがって。おう、クソガキ、戸出一二三っつーんだな。今からママに電話してやるからな」
青天の霹靂だった。
男が汚い笑みを浮かべたのを見て、お母さんの言葉がフラッシュバッグした。
『ひーくん。ランドセルの内側に、住所や電話番号が書いてあるけれど、これは迷子になった時に、お巡りさんか、どこかのお店の人か、親切そうな人に提示するんだよ? 間違っても、怖い人に教えちゃ駄目だからね』
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