減塩の日


 ~ 八月十七日(火) 減塩の日 ~

 ※晏子之御あんしのぎょ

  他人の権威を笠にきて得意がる小者。




 思えば。

 炎天下、何時間も立たされることが常だった俺のバイト。


 それが幸せだったと。

 そう思う日が来ることになるなんて。


「た…………、ただいま…………」

「おう! 水飲んどけよ? 脱水症状で倒れたりしたら大変だからな!」


 いっそ、倒れてその責任をこの高笑い魔女に取らせたいものだが。

 脱水症状って、相当ヤバいものらしいからやめておこう。


 俺は、カンナさんにすすめられるがまま。

 ぬるいスポーツドリンクを口にして休憩室の椅子に座り込むと。


 身体を停止させたその瞬間。

 汗がとめどなく噴き出した。


「この炎天下……。さすがにキツイ……」


 デリバリーを俺が担当するのは。

 身から出た錆。


 とはいえ。

 思わず愚痴を言いたくなるその理由。


「遠いんじゃ……」


 そう。


 配達先が。

 ひたすら遠い。


 しかも。

 危ないからって理由で自転車禁止とか。

 ただのシゴキとしか思えん。


 しかし……。

 どうしてこう遠くの連中ばかり注文して来る。


「そりゃそうだろ。遠いからここまで来れないじじばばが注文するんだから」

「なるほど。でも、なんでじじばばがハンバーガー?」

「誰とは言わんが、ここをじじばばの聖域にしやがった変人がいるんだよ」

「…………そいつの頭に、なにか刺してやりたい気分」

「そりゃ残念。毎日、先を越されてるからな」


 何の話か知らんが。

 もう考えるのもめんどくさい。


 パイプ椅子に座って一分も経ってないのに。

 あっという間にびっしょりになった制服をどうしたものか考えることで精一杯。


 汗が出きるまで着替えない方がいいか。

 いっそすぐに乾くから外にいる方がいいか。


 いや、そんなことよりも。

 今はなにも考えずに座っていたい。


「もうしばらくしたらレジ混み出すから、よろしくな?」


 鬼か。


 俺は、嫌なこったとボディーランゲージ。

 パイプ椅子の背もたれからさらに反って。

 天井を仰ぎ見ながら文句をつけた。


「冗談じゃねー。ちょっと休ませろー」

「あと、次は駅向こうの喫茶店。ファンキーなばあさんがやってる店まで出前頼む」

「ははは。そうか、俺の上にもう一人俺が座ってるのか。そりゃ二つの仕事同時に出来るし、こんなに体が重たいのも納得だ」


 もう笑うしかねえ。


 だが午前中だけでへとへとになった身体をせめてもうちょっとぐらい休ませたい。

 俺は、疲労のために回らない頭を必死に動かして……。


「喫茶店って、どこ」

「だから、アメリカンでロックな感じの店」


 ああ、知ってる。

 でも。


「そんな説明で分かるわけあるか。地図かいてくれ、地図」

「面倒な奴だな。えっと……」


 カンナさんは、手近にあった広告チラシの裏に地図を書き始める。

 よし、これでもうしばらく休んでいられるな。


「お、お帰り、立哉君……」

「おお。…………ん? こんな時間に休憩か?」


 そんな休憩室へひょこっと顔を出したのは。

 舞浜まいはま秋乃あきの


 何かを背中に隠してるようだが。

 どうしたんだお前?


「休憩じゃなくて……」

「じゃあ仕事しろよ。俺は配達がまだまだありそうだから店内は手伝えんぞ?」

「あの、そうじゃなくて……」

「そうじゃなければなに?」

「や、約束してたまかない……」

「げ」

「げ?」


 おっといけねえ。

 つい本音が出ちまったが。


 将来、こいつの旦那になるいい所のお坊ちゃまのためにも。

 本気で料理を頑張ろうとするやる気を削いではいけない。


 とは言え。

 俺が見てないとこで勝手に作るなよ。


 また焦げポテトみたいなもん出されても。

 今日は噛みきる体力ねえからな。


「愛されてるねえ」

「……まあな」


 俺が心にもない返事をしたことにカンナさんは気付きもせず。

 狼みたいな目を丸くさせて、口笛を吹いた。


「さて……。なに食わされるんだ、俺は」

「きっとお疲れな立哉君に、身体に良いものを……、ね?」


 カンナさんの口笛が。

 結婚式の時のアレに変わったんだが。


 秋乃が出してきたトレーを覗き込むなり。

 最後の音符がはてなマークになった。


「和食?」

「あ、あたし、和食しか作れない……」


 厳密には。

 米しか炊けないはずの秋乃にしては。


 頑張った方かもしれないランチプレート。


 鮭の塩焼きにたっぷりの香の物。

 お味噌汁とほかほかご飯。


 カンナさんの口笛も、結婚行進曲からしょうの音色に変わったけど。


 え? その音、どう出してるの?


「身体に良い物……。ネットで調べて作った」

「ああ、そうなんだ。頂きます」

「召し上がれ」


 じっと見られて食い辛いことこの上ねえが。

 ぐずぐずしててもしょうがねえ。


 俺は、早速味噌汁を飲んで。

 鮭と香の物を齧ってみたんだが……。


「うはははははははははははは!!! 身体にいいって言葉の解釈!」

「ど、どう? 身体にいい?」

「下腹部が最近気になるおっさん向け!!!」


 少なくとも。

 これだけ汗かいた俺には向いてねえ。

 

 ほとんど味がしないみそ汁に。

 塩をほとんど洗い落とした焼き鮭に。

 水っぽい漬物。


「もうちょっと頑張りましょうだこの野郎」

「しゅん」

「でもまあ、大したもんだよ。全部お前が作ったんだろ?」


 初めてで、良くこれだけ作れたな。

 俺は素直に褒めてやったんだが。


「……………………は、い」

「なにその下手くそな誤魔化し方。どれとどれが自作?」

「全部」

「……じゃあ製造工程を説明してみろ」

「インスタント味噌汁はあたしがお湯を注いだし、お店にあったおしんこはあたしが見つけたし、店長が焼いた鮭はあたしがお皿に乗せたし、春姫が炊いたご飯はあたしがチンしたから……」

「お前はコンビニ弁当を小皿によそって彼氏に出すウソつき女子か」

「そんなこと無い……。ちゃんと、手を加えてる……」


 それにしちゃ、どれもこれもやたら薄いんだが。


 ん?


 今お前、何て言った?


「どう手を加えたか言ってみろ」

「お味噌はちょっぴりだけにしたし、おしんこはたっぷりの水に漬けたし、鮭はこれでもかって程洗った」

「……身体にいいから?」

「身体にいいから」


 ……こいつに罪はない。

 世の中に成人病の人間が多いのが悪いんだ。


 検索上位に塩分控えめ料理が並ぶのも。

 全部健康管理もできねえおっさんたちが悪い。


「やれやれ……」


 仕方が無いから。

 塩分を求める身体に無理やり味気ない病院食のような物を詰め込むと。


 半分ほど食い進んだところで。

 なかなかいいおかずが一品増えた。


「…………へらへらしながら見るなよ。食い辛え」

「お、おかわり、いる?」


 そうだな。

 そんな嬉しそうな顔見ながらなら。


 何杯でも飯が食えそうだ。



「……愛されてるな」

「まあな」



 とは言え、明日はちゃんと見張ろう。

 連日これじゃ。

 身体がまいっちまう。


「しかしいいアイデアだったな! 明日の予約もびっしりだぜ!」

「…………昼時は店内にいさせろ」

「無茶言うな。一番注文多いに決まってんだろ」


 こうして。

 明日も身体にいい飯が待っていることが確定しちまった。


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