3.さようなら、エヴァンゲリオン(その2)

 何の文句もなかった、という訳ではありません。

 正直、CGで描かれた首なし人体や綾波の頭部は、違和感の方が強く感じました。エヴァンゲリオン(人造人間の方)のCG描写は気にならなかったんですけどね。

(どうでもいいけど首なし人体を見た時に、『百万の命の上に俺は立っている』のゲームマスターを思い出してにやけてしまいました。

 しかしこのCG使用は労力の節約というより(そういう面もあるでしょうが)、現実とフィクションの境目としての表現と理解できます。


 舞台裏やミサトの部屋での戦い、シンジにレーションを食わせるアスカの動きなど、驚かされる表現も多々ありましたが、作品としての衝撃が旧作ほどではなかったとご不満の方が居られるのも、決着をつける優しい物語の展開に不満を持たれた方が居られるのも分かります。

 まあそこは、『風立ちぬ』を制作する時に宮崎駿監督のセリフから。

 奥様から「なんで人殺しの道具を作った人の話なんかやるの。トトロみたいの作ってればいいじゃない」と言われたと話した監督、カメラに向かって「トトロみたいなの見たければトトロ見ればいいじゃんね」と。うん、監督、絶対それ奥様に直接は言っていないでしょうw

 つまり、「旧エヴァみたいなry」




 ……失礼しました。


 他方、特定カップリング推しの皆さんからはシンジがレイでもアスカでもカヲルでもなくぽっと出のマリにかっさらわれた事にはそりゃあ色々おありでしょう。しかし『破』での登場時からマリが好きだった私としては、割と納得であります。


 マリは、いつも刃の上でバランスを取っているような旧作からのエヴァ適合者たち(とあるウェブ記事で、がけっぷち神経な人たちのテーマパークと書かれていて爆笑しました)と違い、誰かに依存するのではなく自己を確立している安心感がありました。

 『破』冒頭での戦いの後、加治が子供を利用するのは気が引けるとヘリの上で独言したのに対し、海上のマリも大人を利用するのは気が引けると語っていた、この時に彼女は旧エヴァのキャラと違うと思ったのでありました。

 鶴巻氏などが、エヴァ世界をループで抜けるために必要な異物として設定の中心となったと読みまして、非常に納得しました。


 『破』でのラブコメ的出会い(空から女の子が!)といい、終盤での会話といい、鮮烈な印象を残していたし、そこまで違和感はないのではないかと。

 それに、自らも送り出されるべき存在だったシンジが、レイやアスカやカヲル、そして父ゲンドウを送り出し、自らはそのまま消えていくことを受け入れようとした時、救われるまでもなく自分を確立していたマリが救世主の救い主として現れる事は必然だったのではないでしょうか。


 それにしても、庵野か……もとい碇ゲンドウが、殻をぶち破って飛び込んできてくれたマリには目もくれず、その後ろにいたユイさんに一目ぼれなのは笑いました。いかにマリが庵野監督の好みでなか(以下略


(続く)


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