第3話
その電話は突然、掛かって来た。
「丹沢さんでしょうか」
老年の男性の声だった。
「はい、そうですが」
「長谷川太蔵と申します…」
聞き覚えのある名前だった。数十年前、北朝鮮を訪れた際、平壌のホテルの従業員に託された手紙の宛名だった。
「娘が丹沢さんに会ってゼヒ御礼が言いたいと申しているのですが…」
彼女が日本にいる? 驚いた彼は電話の主が言ったホテルに向かった。
ホテルに着くと彼は長谷川父娘が宿泊している部屋を訪ねた。
ドアをノックしながら彼は自分の名を告げた。
「お入りください」
男性の応答があった。彼がドアを開けると老齢男性と初老の女性が出迎えてくれた。
「丹沢さん、お久しぶりです」
間違いなく、あの時の従業員だった。
「…お元気そうで何よりです」
丹沢はしどろもどろに応じた。
老齢男性に部屋奥の応接セットに案内され、三人はソファーに掛けた。
「丹沢さん、本当にありがとう。君のお蔭で娘の消息が分かり、再会に繋がったのだから」
太蔵は深々と頭を下げた。丹沢は恐縮して頭を上げるように言い
「私は大したことなどしておりません。それどころか、長い間、自分の保身を考え名乗り出ることもしませんでした」
と逆に謝った。
「そんなことおっしゃらないで。あなたにはずっと感謝していたのですから」
こう応じた桜子の姿は平壌で会った頃を彷彿させた。年齢は取ったが話し方の美しさは変わらなかった。
その時、ドアをノックする音がしてコーヒーとケーキが運ばれてきた。
三人の前にそれらが置かれると運んできたホテルの従業員は部屋を出た。
「召し上がって下さい。ここのケーキは美味しいですよ」
太蔵が進めるままに彼はケーキを一切れ口に運ぶ。美味だった。
その後、暫くの間、三人は丹沢の平壌滞在中の話を中心に、一頻り会話を楽しんだ。
「そろそろ、お暇しなくては…」
話の切りのいいところで、丹沢は言った。
「まぁ、こんな時間。ずいぶんお引止めしてしまいました」
桜子が申し訳なさそうに応えた。
「いいえ、今夜は娘夫婦と孫と夕飯を食べることになっているので」
「お孫さんがいらっしゃるのですか」
「はい」
「幸せですね」
桜子の言葉に丹沢は照れ笑いを浮かべた。そして
「桜子さんも、これからは日本で幸せな日々を送って下さい」
と付け加えた。
「はい、もちろんですよ」
長谷川父娘に見送られて丹沢はホテルを出た。
帰り道、丹沢の心は軽やかだった。長い間、抱えていた宿題をやっと提出した気分だった。
桜子はその間のことは何も語らなかった。彼も敢えて聞かなかった。様々なことがあったのだろう。だが、彼女の人生は残っている。丹沢は彼女の今後の多幸を祈るのだった。
「私が鈴木明恵です」
北朝鮮帰還者家族会会長に伴われて現われた高齢女性が名乗った。
「あなたが徐明浩さんのお姉さんですか」
目の前に座る女性を見ながら山川里夫は答えた。
日本に向かう飛行機内で彼は村上に「日本に着いたら鈴木明恵という女性に会いたいのだが」と相談していた。家族会会員だった明恵とは簡単に連絡が付き、こうして会えるようになったのである。
山川は手にしていた数枚の写真を明恵に手渡した。
「明浩さんの御家族とは北で親しくしていました。この写真は明浩さんからもらったものです」
明恵は渡された写真を見た。弟の明浩及び家族が写っていた。
「弟はどうしていますか?」
「私が日本に来る数ヶ月前に脱北しました。脱北する少し前、明浩さんはこれを私にくれて、もし日本に帰れたら鈴木明恵という人を訪ねた欲しい、自分の姉だからと言いました。彼がいなくなった後、私は、これは日本で再会しようという意味だと思いました」
ここまで一気に話した山川は目の前に置かれたコーヒーを一口飲んだ。
「やはり弟は亡くなったのでしょうか」
悲痛な声で明恵は訊ねた。
「分かりません。北を出て日本或いは韓国まで辿り着くまでには何年も掛かることがあるそうです。希望を捨てずに待ちましょう」
山川は励ますように答えるのだった。
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