第2話

 彼はいつものように市場内を歩いた。国営商店の店頭とは異なりここには何でもある。食料、日用品、衣服等々‥。もとは闇すなわち非合法のものだったが、配給が廃止されて以来、市場は人々が生きていく上でなくてはならない場所となった。それゆえ、今は当局もこの場所を黙認するようになった。

生活のために人々はここにやってきて物を売り、そして買った。人の集まるところには情報も集まる。人々は経済活動の他に情報も得るためにここに来るのである。

 彼もそれらを求めてここに来るのだが、今日は違う。 あることを確認しにきたのである。

 数年前から彼は日本の対北朝鮮放送ともいえる“さざなみ”を聴取するようになった。きっかけは南(韓国)からバルーンに付けて送られたラジオを拾ったことからだった。

 南からは様々なものが付けられたバルーンがよく送られてくる。ラジオ、ドル紙幣等々。これらには必ず北朝鮮政権を批判するビラが添えられていた。かつては、こうしたものを拾った場合は届けなければならなかったらしいは、昨今はラジオや紙幣を取り、バルーンとビラはそのまま放置するようになった。

 ラジオを拾った夜、彼はそっとスイッチを入れてみた。これまで聴いたことのないトーンの朝鮮語が耳に入った。南の放送のようだ。ダイヤルを回していると日本語が聞こえて来た。

「こちらは“さざなみ”です。この放送は北朝鮮にいらっしゃる日本人に向けて日本国東京よりお送りしています…」

―日本で北にいる自分たちに向けた放送をしているか!

彼は驚くとともに心の中に小さな明かりが灯った。日本政府は自分たちの存在を知っているのだ。自分たちは日本に帰れるに違いない。

その日から彼は毎夜“さざなみ”を聴くようになった。北朝鮮にまつわるニュースはもちろんのこと、彼が知っている日本語のうたが聞けるのが何よりも有り難く、心の癒しになるのだった。

 その“さざなみ”で数日前から不思議な内容が流れるようになった。

“今、おかけした曲は皆さんお馴染みのアニメ「マジックガール」の主題歌です。私も子供の頃毎回楽しく見ていました。主人公が市場でおじさんからペパーミントキャンディーを貰ってから運が開けて幸せになるお話でしたね。最後は別れていた家族とも再会出来てハッピーエンドで物語は締め括られました‥”

 彼はびっくりした。確かに歌は「マジックガール」だったが内容は全く違っていた。主人公は魔法の国の少女で偶然出会った少年を好きになって人間の世界にやって来る物語だった。最終回は結局、魔法使いと人間は一緒になれないため、互いに好意を抱きつつ別れるという悲しい結末だった。

―これはどういうことだろうか?

 彼は考えた。何かのメッセージなのではないか。アナウンサーが言った内容を反芻してみた。そして、あることに気付いた。

―市場に何かあるのだろう。

 こうして彼は市場内を見回しているのだった。

「ハッカ飴だよ、美味しいよー」

 ざわめきの中から男性の声が彼の耳に入った。

 ハッカ飴すなわちペパーミントキャンディー…。

 彼は声のした方向に向かった。

「ハッカ飴、美味いよ」

 こう呼び込む壮年男性の前の売台には“薄荷糖”と書かれた小袋が並んでいた。

 彼は勇気を出して男性に声を掛けた。

「マジックガールのペパーミントキャンディーはありますか」

 彼が言い終わると男性は笑顔を浮かべて

「もちろん、ございますよ」

と応じながら端にあった小袋を渡した。

 彼が代金を払うと男はお釣りを出しながら

「明後日、また来ますので、ぜひ、お立ち寄り下さいね」

というのだった。

 彼は頷くとその場を去った。背後では相変わらず男の飴を売る声がした。


 二日後、彼は市場の飴売りのところへ行った。

 男は彼の姿を見ると笑みを浮かべ、

「今日は、これで店じまいだ。十分稼いだしね」

と言いながら片づけ始めた。

「おい、そこの坊主、これ持って行きな」

 店先をうろついていたコッチェビ(浮浪児)に飴の袋を渡した。子供は礼もそこそこにその場を去った。行く手を見ると幼い女の子の姿があった。妹なのだろう。

「では、行きましょうか」

 荷物をまとめた男は彼と隣にいた男女に声を掛けた。

 男が歩き始めると三人は後について行った。

 通りに出るとトラックが一台停まっていた。

「乗って下さい」

 男の言葉に従って三人は荷台に上がった。最後に男が乗り込むとトラックは走り出した。

 まもなく左右に続いた鉄筋のビルは見えなくなり、広々とした田畑が目に入った。 

 彼は数十年もこの地に暮らしたが平壌から出たことはなかった。目の前の光景は初めて見るものだった。緑が少ない畑、遠くに見える山は土が丸見えだった。

 乗車して一時間以上経つが、三人は無言のままだった。

彼以外の二人は目を閉じ眠っているようだった。

 彼はぼんやりとこの二日間のことを思い出した。

 薄荷飴を買って自宅に戻った彼はズボンのポケットから釣銭と紙切れを取り出した。

“故郷に、家族のもとに帰りましょう”

と日本語で書かれていた。

―日本に帰ることが出来る!

 彼は確信した。もちろん容易いことではないだろうが、彼はこの機会に賭けてみることにしたのだった。

 周囲の風景は相変わらず、貧弱な田畑が続いていた。車の姿はもちろんのこと、人の姿も全く見られなかった。

 沈黙の中、トラックの走る音だけが聞こえた。目を閉じた彼はいつの間にか寝入ってしまった。

「まもなく国境を越えます」

 突然、耳元で囁き声がした。

 彼は目を覚ました。緊張した面持ちで彼は男を見た。

「大丈夫ですよ」

 男は笑みを浮かべて応じた。

 トラックは鉄橋を渡り始めた。

 出国ゲートは難なく通過出来た。トラック運転士が兵士姿の職員と二、三言話し、何かを手渡すとそのまま通してくれた。職員は荷台の人々を一瞥するだけだった。

 川を渡り終えると周囲の風景は一変した。道には車や人々が往来し賑わっていた。少し進むと道の両脇には大小様々な建物が立ち並んでいた。それらの中の一つの前でトラックは止まった。

「着きましたよ」

 男は小声で三人に告げると荷台から降りた。

 先に降りていた運転士と一頻り喋った後、荷台の三人に降りるように言った。

 三人が降りたのを確認すると運転士は「じゃ、気を付けて」と別れの挨拶をした後、運転席に座りトラックを走らせた。男と三人は手を振って見送った。

「さて」こう言いながら男は三人に向き直った。

「お疲れ様でした。御腹も空かれたことでしょう。まず食事をしましょう」

 男は後ろ側にあった“飯店”に三人を連れて行った。

 建物内に入ると従業員がやってきて一行を個室に案内してくれた。

 様々な料理が並んだ円卓の置かれた室内には三十代くらいの男女二人が待っていた。

「お疲れ様でした。‘腹が減っては戦は出来ぬ’ですのでまずは食事にしましょう」

 待っていた男が四人をこう言いながら迎えた。四人は勧められるままに席に着いた。

 すぐにビールが運ばれてきた。女性給仕員がそれぞれのグラスに注ぎ終えると部屋を出た。

 飴売りの男がグラスを手に取り、三人に向かって言った。

「まずは、ここまで無事に辿り着けたことに乾杯しましょう。乾杯!」

「乾杯!」

 他の人々もグラスを上げた。

「料理は全て揃っていますので人の出入りは暫くありません。また、監視カメラ皆さん、安心して召し上がって下さい」

 出迎えの女性がこう言うと、平壌から来た女性は両脇に座る男性たちに料理を取り分けてくれた。

 彼と共に来た男性は礼を言って箸をとり、食べ始めた。

 久し振りに食した‘まともな料理’に彼は思わず「美味い」と声を上げた。

 飴売りの男と二人の男女は微笑んだ。

 食事がある程度進んだところで、飴売りの男の男が口を開いた。

「今日は本当にお疲れ様でした。長旅、大変だったことでしょう。今夜はここに泊まり、明日は日本に向かって旅立ちます」

「本当に日本に帰れるんですね」

 料理を取り分けてくれた女性が震える声で言うと

「もちろんですよ。明日の夜は皆さん、日本の地を踏んでいます」

と飴売りの男の男は応じた。そして

「自己紹介が遅れました。私は李永と申します。この地に暮らす者ですが、今回、日本の“特定失踪者問題研究会”の依頼で皆さんをここまでお連れしたのです。この二人はその特定失踪者問題研究会のメンバーです」

と男女二人に視線を移した。

「村上と申します。私とこの一条が皆さんと一緒に明日、日本に発ちます」

 女性が応じた。続いて一条が

「そういえば、まだ皆さんのお名前をまだ伺っていませんね」

というと、隣にいた彼が口火をきった。

「山川里夫と申します」

「長谷川桜子です」

「秋川辰夫です」

 共に平壌を出た三人はここで初めてそれぞれの名前、それも“本名”を知ったのだった。

 食事が済むと三人は今夜滞在する部屋に案内された。

 小ぎれいなシングルルームに入ると山川はベットの上に座った。ここまで無事に来られたことが信じられなかった。だが、この“賭け”は成功するだろうと確信した。


 翌朝、山川たち三人は村上、一条と共に延吉の空港に向かった。韓国経由で日本に行くのである。朝陽川国際空港は韓国の航空会社も入っているのだった。

 出国審査場に入る前に村上は山川と長谷川には旅券を、秋川には渡航書を渡した。

 山川は人生初のパスポートを手にしたのだった。

 審査は難なく済み、一行はソウル行きの飛行機に乗った。仁川空港に着くと日本の航空会社の東京行きの飛行機に乗り換えた。

 機内の窓から富士山が見えた。山川の顔にようやく笑顔が浮かんだのだった。


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