太陽の香り
私は東京都内商社勤務の26歳独身OL、真下ミズキ。今日もお気に入りの香水の匂いを身にまとい出社する。香水ひとつで、いい女に変身したような気分になれるのだから、不思議なものだ。
私が自分の席についてからほどなくして、沢渡さんが出社してきた。彼女は私の背後を通り過ぎ、通路とプリンターを挟んだ向こう側の席に座る。沢渡さんとは私と同年代の女性社員なのだが、いつもレディーススーツをパンツスタイルでビシッとキメており、ショートヘアの黒髪が爽やかで格好いい。一方私はオジサンばっかりの暗~い雰囲気な経理課所属。ファッションは地味すぎないようにゆるふわ系を目指してはいるが、今のところゆるふわ系を自称した日には天罰が下りそうな出来栄えだ。よって沢渡さんと席は近くてもほとんど接点がなく会話もない。しかし私は彼女が身にまとっている爽やかな香水の匂いがたまらなく好きで、彼女の匂いがほんのり漂ってくるだけでも少し幸せな暖かい気分になれるのだ。これは、いつも笑顔で明るく、誰にでも優しい太陽のような沢渡さんの人柄も少なからず関係しているかもしれない。なお漂ってくるといっても決して彼女の香水の匂いが強烈というわけではなく、むしろ本来は直接向き合って会話をしたくらいの距離感でやっと漂ってくるようなほんのりいい匂いといったレベルなのだが、私が匂いにやたら敏感なことと、積極的に嗅ぎに行っているというだけだ。
経理課はいつも慢性的な人不足で、そのくせオジサン連中はいつもの必ず定時で退社するものだから、いつも最後まで残っているのは私ひとりだ。案の定、今日も私はとっくに定時を過ぎたというのに帰れる気配がなかった。長期戦を予想して、自動販売機へコーヒーを買いに行く。いつの間にか、外はすっかり真っ暗だ。
小銭を自販機に入れて、挽きたてのコーヒーが紙コップに注がれるのを待つ。紙コップの自販機でコーヒーを買うときの醍醐味といったら、なんといってもコーヒー豆を挽いている間に漂ってくる香ばしい匂いであろう。缶コーヒーやペットボトルでは味気ない。
ふと、コーヒー豆の香りの中に馴染み深い爽やかな匂いが混じっているのに気がついた。振り向くと、そこには沢渡さんが立っていた。たしか今日、沢渡さんはずっと外回りに出ていたはずだが、てっきり直帰だと思っていたので会社に戻ってくるとは思わなかった。沢渡さんは私と目が合うと、にっこりと笑った。
「お疲れさま、真下さん。今日も残業ですか?」
「お疲れ様です。ええ、相変わらずの人不足で……沢渡さんもこれから残業なんですか?」
「はい。さっき外回りから戻ってきたところなんですけど、仕事溜まっちゃってましてねー」
沢渡さんは後頭部に左手を回して、参った参ったというような仕草をする。営業課の忙しさは人それぞれといった感じで、外回りと称してサボったりしている人なんかもいるようだが、沢渡さんはとにかく仕事熱心であり私と一緒に残業している姿もよく見かけた。それでもこの時間に会社に戻ってきて残業というのはさすがに珍しいので、よほど仕事が立て込んでいるのだろう。
コーヒーが出来上がって紙コップを取り出すと、沢渡さんも自販機に小銭を投入してコーヒーを選ぶ。私はコーヒーにはミルクだけ入れる派だが、彼女はブラックコーヒーを濃いめの味に調整して購入した。
私はなんとなく、沢渡さんの背後でコーヒーを片手に突っ立っている。せっかくだし世間話でも……と思うが、普段あまり沢渡さんとは一対一で会話しないので、話題が思いつかない。私がどんな話題を切り出そうかあれこれ思案していると、沢渡さんの方が先に口を開いた。
「そういえば私、今月いっぱいで会社やめるんですよ」
「え」
素っ頓狂な声が出てしまった。
「やめるんですか」
「はい。もしかしたらもう知られてるかな~と思ったんですけど」
「普通に初耳です」
経理と営業。席は隣同士でも部署が違えばあまり情報は流れてこないものだ。それでも大抵は噂話で聞こえてきてしまったりするものだが……。
「実は、うちの母親が体調を崩しまして。父親は既に他界していて、面倒見れる兄弟もいないもんですから……地元九州なんですけど、そっちに戻ることになったんですよ。母は帰ってこなくてもいいよって言ってるんですけどね、やっぱ心配なんで」
沢渡さんは出来上がったコーヒーを片手に、私の方へ向き直る。なるほど、どうやら退職は最近急遽決まったことで、まだ社内全体に情報が行き渡っているわけではないようだ。
「この会社での仕事は好きだし本音を言えばもう少しやりたかったけど、まぁもともといずれは地元に戻ろうと思ってたんで……それが早まっただけかな、って感じですね。地元での就職先も当てはあるし。ま、いきなりやめるってなっちゃったもんだから引継ぎやらなんやらで今はテンテコマイなんですが」
沢渡さんは悪戯っぽい笑みを浮かべて、コーヒーを啜る。
「そう、なんですか……大変ですね」
家の都合で、か。沢渡さんは今年で5、6年目くらいだったと思うが、5年間勤めた会社を家の都合で辞めるというのは、顔には出さないまでもそれなりに色々思うところはあるだろう。その上で彼女が決断したわけだから、私が口を挟むようなことではない。
「沢渡さんがいなくなったら、寂しくなっちゃいますね」
「あ、寂しがってくれるんですか? 嬉しいなあ」
「ホントですよ。寂しいです、私」
ふと、沢渡さんが会社をやめたあと、きれいさっぱり荷物も整理され、誰も座らなくなった沢渡さんの席のことを思い浮かべる。私が仕事中にふと視線を左に向けても、そこには空席しかない。沢渡さんが私の背後を通り過ぎて、あの爽やかな匂いが漂ってくることもない。
そんな日々を想像すると、本当に寂しい気持ちで胸がいっぱいになってきた。しかし別段、よく会話する仲だったわけでもなく、部署も違う私が一方的にあんまり寂しがるというのも変だ。とりあえず笑みを浮かべると、沢渡さんも笑みを返してくれる。互いにひとくちコーヒーを啜る。
「私、真下さんのこと結構尊敬してるんですよ」
不意を突かれてコーヒーを吹き出してしまうかと思う。
「そ、そんな、私は別に尊敬されるような人間なんかじゃないです」
「ははは!そんなことないですよ。経理課で紅一点なのにいつも遅くまで残業して頑張ってるじゃないですか。」
沢渡さんはまたいい匂いをふりまきながら笑う。あまり褒められ慣れていない私はうまい返しも思いつかず挙動不審になってしまう。
「あと、いつもいい匂いしますよね」
「はい?」
早くも本日二度目の素っ頓狂な声をあげてしまう。
「どんだけハードに仕事こなしてても、毎朝ちゃんと香水までつけてくるのすごいなって思ってて。私が毎日香水つけるようになったの、真下さんの影響ありますからね」
なんと。私がいい匂いだと思って憧れていた沢渡さんの香水は、実は私の影響で始めたものだったのか。気づかぬうちにいい匂いを振りまくいい女になれていたということらしい。どうしよう。かなり、というかめちゃくちゃ嬉しい。
「あ、なんかすいません……一方的にべらべら語っちゃって」
沢渡さんは照れくさそうに左手で後頭部を掻く。私が感動のあまり黙っていたら、誤解されてしまったようだ。
「あ、いえ!別に引いているわけじゃなくて……その……」
取り繕おうとするも、うまく言葉が出てこない。
「……私も、沢渡さんはいつもいい匂いするな、って、思ってました」
「えっ、ホントですか?」
突然の言葉に、さすがにびっくりしたのか沢渡さんは目を見開く。もしかしたら若干お世辞と思われているのかもしれない。でも、これは私の本心だ。
「はい。毎朝沢渡さんが出社してきて私の後ろを通るたびに、いい匂いだな~、こんな女性になりたいな~、って思ってました」
……あれ、お世辞と思われないように細かく自分の思いを説明したら、少し気持ち悪い感じになってしまったかな。
「マジですか~、真下さんがそう思ってくれてたなんて、嬉しいなあ」
「私もです。ふふふ」
沢渡さんは、気恥ずかしさもあるだろうが、恐らく本当に喜ばしく思ってくれているようで、若干頬が赤くなっている。私も少し頬の熱を感じる。二人とも同時のタイミングで、またコーヒーを啜る。
「真下さんって意外と結構親しみやすいですね。こんなことなら、もっと仲良くしとけばよかったな」
「えっそんな近寄りがたいイメージありました?」
「いえ、全然話しかけづらいとかではないですけどね。やっぱり忙しそうだし、部署も違いますし」
「ああ……私も勝手に、沢渡さんは別世界の人間だと思ってたかもしれないです。天上人みたいな」
「ははは!おおげさですよ」
気づけば、互いに手に持った紙コップの中身は空になっていた。急に立ち話をする理由を失ってしまい、若干会話に間が空く。沢渡さんは、私の分も一緒にしてゴミ箱へ紙コップを捨ててくれた。
沢渡さんとは部署も違うし、送別会に誘われたりすることはないだろう。もしかしたら、これが彼女と交わす最後の会話かもしれない。なにか聞きそびれたことはないだろうか。
「あの」
言葉が不意に漏れてしまう。沢渡さんはこちらを振り向く。
「香水……なんの銘柄使ってるのか教えてもらっても、いいですか」
時間が止まったかのような、気まずい沈黙。
突然、沢渡さんが笑いだす。
「ぷっ。……くっくっ、ははは!」
「な、なんで笑うんですか!」
私はもうほとんど顔から火が出そうなくらいだ。
「ごめんなさい。まさか香水の銘柄を聞かれるとは思わなくて……」
沢渡さんはスーツのポケットから手帳を取り出して、ボールペンで手早く何かを書いてから、その紙を破いて私へ手渡す。そこには確かに、香水の銘柄らしき単語が記されていた。
「どうぞ」
「あ、ありがとうございます……!」
私が頭を下げると、沢渡さんはそのままボールペンと手帳も手渡してくる。
「じゃ、真下さんのも教えてください」
「えっ、私がしてる香水の銘柄ってことですか……?」
「もちろん」
沢渡さんは例の笑顔でにっこりと微笑む。この笑顔で頼まれたらなんでも応じてしまいそうだ。天賦の才とはまさにこのことだ。正直恥ずかしかったが、そもそも自分から言い出したことでもあるし、渋々手帳にお気に入りの香水の銘柄を記入して返した。
「どうも。これで私たち、香水友だちですね」
「ふふふ、そうですね」
「じゃあ、色々とありがとうございました。またどこかで会いましょう」
「いえ、こちらこそ。お元気で。また会えたらいいですね」
私たちは固い握手を交わして、互いに席へ戻った。
その日は私のほうが早く会社を上がった。翌日以降も沢渡さんはとにかく毎日忙しく、ほとんど会話を交わすこともないまま、あっという間に会社をやめて帰郷していってしまった。残されたのは、香水の銘柄を記されたメモだけ。
沢渡さんの席がすっかり整理されて『空席』に変わったころ、私は沢渡さんに聞いた銘柄の香水をネットで調べて、購入してみた。マイナーなメーカーで私はチェックしたことすらなかったのだが、嗅いでみると確かに沢渡さんの香りがして、あの笑顔とあの日の会話が鮮烈に思い出された。
連絡先くらい交換しておけばよかったかもしれない。いや、恐らく営業課の誰かに聞けば、今でも連絡先を知ることくらいはできるはずだ。しかし彼女もきっと今ごろ故郷で新しい仕事を始めて忙しいだろうし、そんなに特別仲が良かったわけでもない私が退職後も彼女と連絡を取り合うというのも奇妙というかあまり気が進まないので、きっと連絡先を知っていたとしても連絡はとらないだろう。
それよりも、私は沢渡さんの『香り』を持っている。そして、沢渡さんも私の『香り』を持っている。あの日の彼女の言葉がどこまで本心であったかはわからない。もうすっかり私のことなんかは忘れて、私の香水の銘柄なんかは手帳の片隅に埋もれてしまっているだけかもしれない。それでも、沢渡さんが私の香りを『いい匂い』と言ってくれて、私と彼女が銘柄を教えあったことは事実だ。もし彼女も私と同じように、私の銘柄の香水を購入していて、たまに匂いを嗅いで私のことを思い出してくれている可能性が1パーセントでもあるのなら、それで十分じゃないか。あの日私が勇気を出さなかったら、それは1パーセントも起こりえないことのままだったのだ。
だから私は今日も胸を張って、お気に入りの香水をつけて家を出て行く。あの人が『いい匂い』と言ってくれた香りだから。また、ほんの少しでも勇気を出せるように、と思いながら。
それでも街中でふと、あの馴染み深い爽やかな香水の匂いが漂ってきた瞬間、つい人混みの中に太陽のような笑顔を探してしまうのは、やはり私が欲張りだから、ということだろうか。
創作百合短編集~パステルカラー てばさき @teba_saki
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