第58話 明治十四年の政変 2

 大隈と福澤が親しくなると、福澤は大隈の部下として自分の慶應義塾の生徒たちを送り込むようになった。


 また、福澤の生徒たちは新聞記者の者も多かった。


 明治13年。


 この頃、『参議さんぎ』という役職があり、太政大臣だじょうだいじんの三条、左大臣さだいじん有栖川宮熾仁親王ありすがわのみやたるひとしんのう、右大臣の岩倉の下、参議という役職の人たちが話し合いをして、いろいろ決めていた。


 世の中では自由民権運動が盛んになり、政府でも憲法を作ることや議会を作ることについて相談されるようになった。


「どのような形がいいか、みんなに意見を出して欲しい」


 岩倉が意見書を集めることになり、参議たちはそれぞれ意見を書いて提出した。


 ところが大隈だけがなかなか意見書を出さない。


 参議の中でもみんなの上に位置する筆頭参議ひっとうさんぎである大隈が意見書を出さないことに博文たちは疑問ぎもんを持っていた。


 そのため、明治14年のお正月にみんなで熱海に集まった時に、博文と馨は大隈に意見書について尋ねた。


「提出が遅れていて申し訳ないが、まだ書き途中なのである」


 大隈はそう弁解べんかいした。


「それじゃ書きあがったら僕たちに見せてくれる?」


 博文の求めに大隈はうなずき、博文は大隈の意見書が出来るのを待った。


 ところが、春になって、博文は岩倉から大隈が左大臣である有栖川宮にないしょで意見書を出していたことを聞かされるのである。


 岩倉は自分を無視して、さらに上の有栖川宮にないしょで意見書を出し、しかもそれを天皇陛下に見せるよう求めていたことに怒っていた。


 信頼する井上毅に岩倉は意見を求め、毅が福澤の『民情一新みんじょういっしん』という本と大隈の意見書が似ていることを伝えると、岩倉は大隈と福澤が現在の政府をるがすのではと心配し、対抗策たいこうさくを毅に求めた。


 大隈の意見書はもう明治16年には憲法を制定せいていするというとても急な内容だった。


 これは憲法を話し合いで作るのではなく、すでに福沢諭吉らが作った交詢社こうじゅんしゃ憲法草案けんぽうそうあんを、そのまま日本の憲法にする気ではないかと見る人もいた。


 博文はその内容と大隈がみんなにないしょで意見書を出したことにショックを受けた。


 毅は博文に福澤の関与かんよを説明したが、博文は毅が岩倉の命令を受けて、ドイツにならった君主の力の強い国とするという意見書を作ったことも不満だった。


 大隈が博文に謝りに来たこともあり、博文は大隈を追放しようとまでは思わなかった。

 この次の月。

 

開拓使官有物払下かいたくしかんゆうぶつはらいさげ事件』が起きる。

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