第57話 明治十四年の政変 1

 大久保が亡くなった後、博文が内務卿ないむきょうになり、岩倉の力を借りながら、日本の近代化を推し進めていく。


 維新三傑がいなくなってしまったことにより、博文の地位は一気に上がっていった。


 まだ、博文は37歳だったが、博文と同じくらいに政治的に力を持っていたのは、同じ大蔵省で近代化を推し進めていた大隈重信くらいになっていた。


 大隈と博文は仲が良く、明治の初期には築地にある大隈の家は『築地梁山泊つきじりょうざんぱく』と呼ばれ、その5000坪ある大きなお屋敷に博文と馨はびたっていた。


 他にも後に日本屈指にほんくっしの実業家となる五代友厚ごだいともあつや渋沢栄一や、後に『日本近代郵便の父』と呼ばれる前島密まえじまひそかが大隈の家にはよく遊びに来ていた。


 梁山泊りょうざんぱくとは中国の伝奇小説でんきしょうせつ水滸伝すいこでん』に出て来る名前で、優れた人たちの集まる場所という意味があった。


 まさに大隈の邸宅ていたくは近代日本をひっぱっていく、優れた人材じんざいの集まる場所だった。


 大隈は外国へ行ったことはなかったが、長崎でフルベッキから西洋の学問を学んでおり、博文と同じく外国通がいこくつうということで、明治政府に採用さいようされた。


 博文と大隈はその後も共に大蔵省でがんばってきたのだが、大久保が亡くなったあたりから、二人の関係が微妙になる。


 大隈は佐賀の出身である。


 明治のはじめは薩長土肥さっちょうどひと言われたが、明治10年代になると、政府の要職は薩摩と長州がしめるようになった。


 薩長さっちょうの強い権力をくずしたい人たちは、大隈のところに集まるようになった。


 博文は本人自身はかたよったところはないものの、出身が長州である。


 そのため、長州閥ちょうしゅうばつの人間と見られ、薩長藩閥さっちょうはんばつ反藩閥はんばんばつの戦いは、そのまま博文と大隈の戦いのような感じになっていった。


 それでも、大隈と博文自体の仲は良く、日本に憲法を作るため、どうしたらいいかの話し合いなどを重ねていた。


 今になると、議会があり、憲法があることが当然のようだが、明治の頃にはそれはなかったのである。


 また、天皇中心の国という考え方も、博文や大隈のように、天皇を中心として議会を開き、憲法を作って、その法にしたがって、国を運営しようという人もいれば、『天皇親政てんのうしんせい』といって、天皇自身が政治を行うべきだと考える人もいた。


 特に公家くげや天皇に近い人たちは天皇親政を望む人が多く、その宮中きゅうちゅうが憲法や議会を作るのに反対するのと、博文のような政治家は戦わないといけなかった。


 本来なら博文と大隈が手を取り合って進める方が良かったのだが、大隈が明治11年に福澤諭吉ふくざわゆきちと親しくなると、少しずつ関係がおかしくなっていった。


 福澤は自分自身は政府で働くことはなかったものの、自分の慶応義塾けいこうぎじゅくの生徒たちはどんどん政治の場にも、実業の場にも送り込んでいた。


 現在でも慶応義塾の『三田閥みたばつ』は強く、政治の世界でも実業界じつぎょうかいでも大きな影響力があるけれど、この明治の頃がその最初であった。

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