第56話 岩倉使節団と維新三傑の死

 博文の最初のイギリス留学は半年ほどだったが、その後も何度も外国に行った。


 明治3年の11月には元幕臣の福地源一郎ふくちげんいちろうらと半年ほど渡米するが、その帰国した年の11月にまた岩倉使節団いわくらいせつだんに参加して、外国に行くことになった。


 岩倉使節団では、博文は副使ふくしとなった。


 岩倉具視いわくらともみが特命全権大使、副使が木戸孝允きどたかよしと名前を変えた桂小五郎、薩摩さつま大久保利通おおくぼとしみち佐賀さが山口尚芳やまぐちなおよしであり、博文は最年少の副使だった。


 この旅で博文は英語力を生かして活躍するのだが、なにより良かったのは、この旅で大久保や岩倉と仲良くなったことである。


『国是綱目』や大蔵省の問題などで、それまでは伊藤は大久保との関係があまり良くなかったのだが、岩倉視察団で大久保とも岩倉とも仲が良くなり、それが後の博文にとってとても良い縁になった。


 明治六年の政変や大阪会議などで大久保・岩倉の信頼を得て、長州の先輩である木戸といううしだても持っていた博文だったが、それが明治10年になって一気に崩れる。


 明治10年5月に木戸が病死し、9月には西南戦争で西郷隆盛が戦死。

 明治11年5月には大久保が紀尾井坂で暗殺され、伊藤の先輩たちは一気にいなくなってしまった。


 木戸、大久保、西郷の維新三傑が亡くなると、明治維新の中心だった人たちがいなくなってしまった。


 先輩たちはいなくなってしまったものの、博文には心強い部下ができた。


 幕末の最初の頃の話で、博文は一生の中で、三人の井上と深く関わることになると書いた。


 一人は親友の井上馨。


 もう一人は長州ファイブの中で一番最初に知り合った友人である井上勝。


 そして、三人目は井上毅いのうえこわしである。


 毅は熊本出身の官僚で、フランス留学経験があり、帰国後に大久保に、そして大久保のの盟友である岩倉の元で仕事をしていた人物だ。


 博文は明治8年に発表された『立憲政体樹立りっけんせいたいじゅりつみことのり』の文章を毅に書かせた。


 毅は頭が良く、知識が豊富ほうふで、文章のうまい人だった。


 『立憲政体樹立の詔』の文章案を書かせた博文は、その文章に感心し、ほとんどそのまま正式な文章とした。


 毅と並んで博文を支えたのは伊東巳代治いとうみよじである。


 巳代治は19歳の時から博文につかえ、文章力と共に高い英語力で博文の活動を支えた。


 きれいな字を書き、まつげの長いきれいな顔をした巳代治であるが、才能がある分、気が強く、すこしめんどくさい性格だった。


 毅も冷静れいせいに見えて、国と人々を思うあまり、激しく物を言う時もあったが、博文はそんなかどがあるけれど優秀な部下たちをうまくもちいた。


 明治維新で勝者しょうしゃとなった薩摩と長州は『薩長藩閥さっちょうはんばつ』という集団を作り、自分たちだけで権力を握っているように言われたが、博文は別の藩の出身者をたくさん政府に入れた。


 毅は熊本の出身であり、巳代治は長崎の出身である。


 また、後に博文の三人目の部下となる金子堅太郎も福岡の人だった。


 博文は薩摩が長州がという意識はなく、全員が『日本人』であるという意識を強く持っていた。


 そのため、元々は徳川幕府の幕臣ばくしんだった人たちとも仲が良く、高い地位にもちいている。


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