第55話 初代工部卿と長州ファイブ 4

 謹助は明治になると造幣の仕事に関わるようになる。


 馨に呼ばれて造幣権頭という仕事についた謹助は日本人の手で造幣をしようと努力する。


 明治の日本には外国人技師がたくさんいた。


 日本の近代化のために、外国から技術を指導しどうしてくれる人をたくさんまねいたのである。


 多くの外国人技師が日本の鉱山開発や建築に力を貸してくれて、先に名前の出たモレルのように『日本の鉄道の恩人』と感謝される人もいたが、謹助の仕事となった造幣にやってきた外国人技師団はそれとは少しちがった。


 造幣の技術指導者トーマス・ウィリアム・キンダーは、明治政府の一番上に位置する太政大臣だじょうだいじんの三条実美高い給料をもらい、かつ、彼らをクビに出来る権限は日本にはないという状態だった。


 キンダーは知識も経験もある技術者ではあったが、日本のお金を作る場所が外国人に支配されているというのは、ゆゆしき事態じたいだった。


「日本人の手でお金を作れるようにならなくては」


 謹助は技術を学びつつ、外国人技術者を日本の政府が直接ちょくせつやとえるように行動を起こす。


 明治14年には謹助は造幣局長となり、日本人だけでお金を作れるように、研究会を作ったり、技術の向上につとめた。

 

 博文も大蔵省には関わっていたが、より政府のお金に関わっていたのは馨であり、馨と謹助の協力関係も、日本の造幣の改善を推し進める原動力となったことだろう。


 現在でも大阪の造幣局には「桜の通り抜け」というものがある。


 これは明治16年に謹助が一般開放を始めたものだ。


「造幣局の局員だけで桜を見てはもったいない。大阪市民のみなさんと共に楽しもうではないか」


 謹助の提案により、造幣局の桜が満開の時期には造幣局の通路が解放され、それが今の続いているのだ。


 長州ファイブが作ったものは今の日本にもたくさん続いている。


 勝ががんばった鉄道は、明治5年に新橋から横浜桜木町までの間が開業したのから始まり、日本の鉄道はどんどん発展して、今は新幹線がいろんなところを走っている。


 謹助ががんばった造幣は、お金が日本人だけで作れるようになり、2024年には新紙幣が発行される。


 庸三は日本の工業化につくすだけでなく、盲学校もうがっこう聾学校ろうがっこうを設置した。


 明治4年と早い時期から障がい者教育に熱心に取り組み、現在の支援学校の基礎を築いている。


 これらの活動の支援をしたのが、馨であり、博文であった。

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