第52話 初代工部卿と長州ファイブ 1

 博文は『初物食はつものぐい』とよく言われた。


 初物はつものとは、その季節に最初に出た野菜や魚などのことを言い、てんじて、まだ誰も手をつけていないものを意味した。


 博文が初物食いと言われたのは、初めて出来た地位に、博文が座ることが多かったからである。


 初代総理大臣しょだいそうりだいじん初代枢密院議長しょだいすうみついんぎちょうなど博文は初の地位に付くことが多かった。


 そうなったのは、ただ博文が幸運だったからではなく、博文自身がその組織と地位を作ったからだ。


 工部卿も博文が初代工部卿となるのだが、工部省という組織自体、博文と山尾庸三が協力して作ったものだったのである。


 長州ファイブの3人はイギリス留学でそれぞれ自分の専門知識と技能を得て、日本に戻って来てくれた。


 庸三は博文たちの帰国後、ロンドンに次ぐ第二の都市・港湾都市グラスゴーに行き、造船所ぞうせんじょで技術研修を受けた。


 働きながらアンダーソン・カレッジの夜学で勉強を重ねた。


 夜学とは夜間に開かれる学校で、庸三は日中は徒弟工とていこうとして現場で働きながら学び、夜は講座を受けて知識を得て行ったのである。


 その知識と経験を生かし、明治元年に帰国した後は、長州藩で造船学ぞうせんがくを教えていた。


 しかし、井上馨いのうえかおると名前を変えた聞多と、博文に呼び出され、横須賀製鉄所で働き、博文と協力して工部省の設置を目指す。


 工部省は鉄道、造船、電信、製鉄など工業と公共事業をにな官庁かんちょうだ。


 日本の工業は外国に比べて、ものすごく遅れていた。


 イギリスでは1770年頃から『産業革命さんぎょうかくめい』が始まっていた。


 社会しゃかい経済けいざい変革へんかくと同時に工業化が進んでいったのである。


 洋服を作るために糸をつむぐ紡績機ぼうせききに始まり、蒸気機関じょうききかんという蒸気をエネルギーとした新たな仕組みが作られた。


 日本ではこの頃、江戸幕府第十代将軍・徳川家治とくがわいえはるの時代である。

 杉田玄白すぎたげんぱく前野良沢まえのりょうたく中川淳庵なかがわ じゅんあんらが1774年に解体新書かいたいしんしょを出版しているが、日本ではやっと人間の体の構造が明らかになるという状況で、工業面ではまったく遅れていた。


 イギリスでは機械が糸をつむぐ中、日本では人の手で糸が紡がれており、蒸気機関が工場で動き、鉄道や汽船きせん人力じんりきとは比べ物にならない速さで走らせた。


 日本の明治元年が西暦1868年なので、100年近く海外に比べて日本の工業化は遅れていたのである。


「日本には工業化が必要だ。日本の技術者を育てて、近代工業化を進めないと、日本はどんどん諸外国から遅れてしまう!」


 博文には庸三のような工業の専門知識はないが、代わりに政治力がある。


 庸三という専門家と協力しながら、博文は工部省を作り上げた。


 この工部省には欠かせない人がいた。


 井上勝である。

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