第51話 兵庫県知事になる

 幕末が終わり、明治になると、俊輔は博文と改名した。


 博文も高杉がつけた名前である。


 明治維新後に博文が最初の活躍の場所としたのは兵庫・神戸だった。


 外国人の多い神戸の地は、外国人との交渉に慣れた博文には向いた土地であり、明治2年には兵庫県知事になった。


 この兵庫県知事の時に、博文は『国是綱目こくぜこうもく』という意見書を出す。


 『国是綱目』は博文が陸奥宗光むつむねみつ中島信行なかじまのぶゆき田中光顕たなか みつあき何礼之がれいしたちと作ったものである。


 中島は後の時代になると、板垣退助いたがきたいすけの自由党の副総理ふくそうりとなり、自由民権運動じゆうみんけんうんどうの中心となる。


 そのため、伊藤たち長州の人間とは深い対立関係にあるように言われるが、実は博文とは幕末の頃から付き合いがあったのである。


 陸奥も中島も幕末の頃は坂本龍馬さかもとりょうま海援隊かいえんたいにいたのだが、中島は実はその前は長州の遊撃隊にいた。


 中島に限らずだが、後に対立しているように見える人も、元は仲間であったり、古い付き合いであったりするのが幕末明治という時代なのだ。


 この意見書には、広く海外と交流して貿易をすること、人々に自由の権利を与えて職業や住むところを自由に選択できるようにすること、天皇による国家を維持するため文明開化の政治を行うこと、全国の人々に身分問わず教育を与えることなど、とても開明的な意見が並んでいた。


 また、姫路の酒井忠邦さかいただくにが出した版籍奉還はんせきほうかんを後押しする意見も書かれていた。


 版籍奉還とは各藩が持っている兵力や政治の権利などをすべて朝廷に返却させるということである。


 元の藩主は貴族として扱い、全国一律の法を一般に広く伝えようと意見書に書いた。


 博文の意見はとても進んだ意見であったが、あまりに進歩的すぎて、大久保利通おおくぼとしみちら、明治政府の上層部の人たちの反感を買うことになる。


 博文はその後、工部卿こうぶきょうとなる。

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