第50話 幕末の終わり

 功山寺での決起が成功し、長州は藩論が変わり、尊王倒幕そんのうとうばくの流れになった。


 だが、その一番の功労者であるはずの高杉が、藩の上層部の職にはつかず、旅に出ると言い出した。


功名こうみょうの地はひさしく居るべからずだ」


 手柄てがらを立てて名が上がったら、長くそこにいないで去るべきだと高杉は考えていた。


范蠡はんれい勾践こうせんを“艱難かんなんを共にすべき人だが、富貴ふうきを共にすべからざる人である”と言っただろう」


 范蠡、勾践とは中国の人物である。


 中国春秋時代後期のこと、名参謀めいさんぼうであった范蠡は勾践に仕え、勾践を中原ちゅうげん覇者はしゃに押し上げた。


 しかし、中国の多くの土地を治める王様となった勾践は、これまで大変な道のりを共にしてくれた部下たちのいうことを聞いてくれなくなってしまう。


 幕末の頃の人たちは中国の故事こじをよく知っていたので、俊輔も何のことかはすぐにわかった。


「人というものは苦労は共にできるけれど、その成果や豊かさは共にできないものだ。だからどこか外国へでも行こうと思うのだが、俊輔も一緒に言ってくれないか?」


 高杉の誘いに、俊輔は乗った。


「いいですね。お供しますよ」


 俊輔は高杉の誘いに乗ったが、他の事情も絡んで、高杉は海外に行くことが出来なかった。


 また、藩の状況も二転三転にてんさんてんして、俊輔はまた身を隠したり、逆に身を隠していた桂小五郎が長州に戻ったりと、一ヶ月ですぐに状況が変わる事態だった。


 身を隠さなくていい時は、俊輔は主に外国関連の交渉や戦争のための武器購入などの仕事についた。


 留学経験が買われたのである。


 高杉ともよく行動を共にし、薩長盟約さっちょうめいやくの裏方をしたり、蒸気船の購入に駆けまわったりしたが、なかなか藩の状況も日本の状況も落ち着かず、京都で隠れていたりもあった。


 そのため、高杉が肺の病が重くなった時も見舞いに行けず、その死の場に立ち会うことも出来なかった。


 ただ、死に目に会えないのは、幕末の常と言えた。


 久保塾の頃から仲が良かった吉田稔麿も、池田屋事件で斬られて死んでしまった。

 稔麿が死んだのは、まだ俊輔がイギリスから帰国する前だった。


 久坂たちも禁門の変で死んでしまい、会えなかった。

 来原も俊輔が向かった時には、切腹してすでに死に絶えていた。


 それでも、また生きて会える仲間もいた。


 長州ファイブの面々である。


 イギリスで留学を続けている勝、庸三、謹助の三人は、明治になり、新しい日本を作るのに、協力してくれることになるのである。

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