第31話 イギリス密航 9

 聞多が謝って事情を話すと、税関の役員が案内の人を用意して、聞多をペガサス号まで連れて行ってくれた。


「良かった、ペガサス号だ……!」


 ようやく船に戻れた聞多は、急いで船の中に入った。


「俊輔! 食い物を買って来たぞ!」

「聞多……!」


 俊輔は飛び上がりそうなほど喜んで、聞多に駆け寄った。


「さっき、もうお腹が減って歩けないとか言ってなかったっけ?」

「そ、それは……」


 駆け寄ってきた俊輔をからかった聞多だったが、すぐに食べ物を渡してあげた。


「腹が減ってるだろうから食べろ。同じものを俺も食ったから味は保証する」

「イギリスの料理店で食事をして、持ち帰りまで頼んだの? 聞多はすごいな!」


 聞多の行動力に感心しながら、俊輔は聞多が買ってきたものを開いた。


「ああ、うまそう」

「大したものじゃないけどな。腹が減ってるならうまいと思う。俺もそうだった」


 俊輔がやわらかな半熟の卵を頬張ほおばり、パンに手を伸ばす。


「おいしい……ありがとう聞多」

「ああ。ゆっくり食えよ」


 聞多の言葉にうなずき、俊輔はパンを口に入れた。


「良かった。料理だけじゃなく、聞多がちゃんと帰って来られて。ひどい目に遭ってなくて」

「ひどい目どころか、帰りは道に迷って、入ってはいけないところに入ったみたいだが、そこの役人に道に迷ったと話したら送ってくれたぞ」

「そっか。船員たちは荒くれだけど、街中の人たちは違うのかもね」


 あいづちを打った後、俊輔は肉を口に入れた。


「塩漬けの豚肉、航海中に食べたものみたいにパサパサじゃなくておいしい」

「だろ? それにしても、俺たちもずいぶんを肉を食べるのに慣れたよな」


 江戸時代は肉を食べることは一般的ではない。


 長州の杉孫七郎が行った文久遣欧使節団でも、多くの人が肉やパンや牛乳が口に合わず、食べられなかったという。


 しかし、俊輔も聞多も今や迷わず肉を口にして、うまいうまいと言える。


 ペガサス号の旅で、二人は一気に西洋化したのだ。


 そして、江戸時代の話で言うならば、聞多の行動は江戸時代の常識からはまったく外れていた。


 どっちが買い物に行くか、お互いにお腹が減って動きたくないからと押し付け合いはしたものの、聞多は俊輔に行けとは命じなかった。


「お前のほうが身分が下なのだから、黙って行ってこい」


 聞多がそう言っても、全然おかしくないのだ。


 どんな危険があるかわからないから自分が行くのではなく、行って来いと命じる。


 危険でなくても、身分が下なのだから命じられたとおりに動く。


 それはひどいことでもなんでもなく、江戸時代だったら普通にあることだった。


 しかし、聞多は身分をたてにして俊輔に命じたりはしなかったし、自分が外に出て、俊輔の分まで食べ物を買って戻って来てくれたのである。


 航海の中で聞多の優しさにたくさん触れた俊輔だったが、それはイギリスに到着しても変わることはなかった。


 俊輔が食べ終わる頃、ジャーディン・マセソン商会から迎えが来た。

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