第8話 京都、長崎、江戸へ
安政五年。利助が松下村塾に入った次の年。
長州藩は六人の若者を選んで京都に派遣することにした。
吉田松陰は松下村塾から京都行の六人のうち四人を
その中に利助も入っていた。
松陰は信頼する松下村塾の
「利介、
利助の学問がまた進歩した、彼は良い
幕末の人はよく名前や名前の字を変えるので、利助も利介や利輔だったりした。
利助は名前にあまりこだわりがなく、後に俊輔、博文と名前を変えるのだが、その名前も本人ではなく、松下村塾の先輩・高杉晋作がつけた。
「利助、お前の名前の漢字『利』は『俊』と訓読みが同じだから、利助をやめて俊輔になれ」
高杉が勝手に名前を決めたのだけれど、利助は特に不満はないのでうなずいた。
「わかりました。そうします」
利助の利は
幕末の頃までは普段呼ばれる名前とは別に『
利助の諱は『博詢』だったのだが、これも高杉が変えろと勧めてきた。
「論語に『博文約禮』という言葉がある。“子曰、君子博學於文、約之以禮、亦可以弗畔矣夫”というやつだ。広く学問をして、知識や教養を豊かにし、礼をもって学んだことを理解して実行する。この『博文』を利助は諱にしろ」
しきりに自分の名前の世話を焼きたがる高杉を面白く思いながら、利助はやはり特にこだわりが無かったのですぐうなずいた。
「それでは博文にします」
後に高杉が俊輔の音は春畝だそうだからそうしろというので、また俊輔の名が増えた。
利助が幕末時代に活躍する頃に使った俊輔という名も、明治の総理大臣の時に使った博文という名も、雅号として使う春畝も、すべて高杉が名付けたものだった。
十代の利助の話に戻ろう。
利助は京都に行くことになり、ここで後に明治になって自分と並び立つことになる人物に出会った。
三歳年上で長身の寡黙な男だった。
山縣と伊藤はこの京都行きの時が初対面である。
後に山縣は松下村塾に入るが、この時はまだ塾生ではなかった。
幕末の京都は時代の舞台の中心ともいえる場所で、利助はここで
身分の低い利助がそんな一流の学者たちと会うことが出来たのは、師匠である吉田松陰の名声と、松下村塾の先輩である久坂玄瑞のとりなしのおかげである。
京都で貴重な出会いを経験して、萩に戻ると、利助は来原と再会した。
「長崎に行くぞ、利助!」
利助は二十人の仲間たちと共に来原の長崎行きに参加することになったのだ。
萩に戻ってすぐの旅立ちだったが、その合間に挨拶に行くと、松陰が紹介状を書いてくれた。
「肥後藩士に
武兵衛は肥後勤王党の中心人物で、松陰の友人・
幕末の四大人斬りの一人・
この武兵衛への紹介に松陰はこう利助の紹介を書いた。
『才劣り学おさなきも、質直にして華なし、僕は
才能は劣っていて、学問はまだ未熟だけれど、性格は素直で派手なところがない。僕は
すごい才能があるわけでもなく、学問もまだまだだけど、性格が素直ないい子だと、松陰は仲間に紹介したのだ。
しかし、利助の長崎に行きはとても忙しかった。
長崎で洋式の兵術や銃の扱い方を学び、来原について筑後柳川に行ったり、萩と長崎を往復したり、半月おきに移動するほど慌ただしかった。
それでも新しい場所・新しい経験は面白く、利助にとっては楽しい日々だった。
長崎での勉強が終わると、来原は利助を自分の義兄である桂小五郎に預けることにした。
「義兄と共に江戸に行き、いろんな世界を見て来るといい」
利助は喜んで桂小五郎に付いて江戸に向かった。
だが、その江戸で利助は驚きの報に接した。
吉田松陰の
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