第7話 松下村塾

 利助の相州警備の仕事は一年交代のため、安政四年の秋には終わりになった。


 来原は別れを惜しみ、利助に紹介状を書いてくれた。


「萩に戻ったら吉田松陰よしだしょういんのところで勉強を続けるんだぞ」


 利助は来原の紹介状を手に吉田松陰の松下村塾しょうかそんじゅくに入塾した。


 吉田松陰は九歳で長州藩の藩校明倫館はんこうめいりんかんで兵学師範になるほどの天才で、長州藩の藩主にもその能力を認めれた人だったが、松下村塾で教えるようになる前は野山獄のやまごくという武士用の牢に入っていた。


 安政元年に外国を自分の目で見たいと考えた松陰は、ペリーの艦隊に小舟で近づき、海外に連れていって欲しいと頼んだ。


 当時はこれは密航ということで罪になるため、ペリーは松陰の頼みを断り、松陰は牢に入れられてしまったのだ。


 その後、牢を出て、実家に幽閉ゆうへいされることとなった松陰は、伯父の玉木文之進たまきぶんのしんから松下村塾を受け継ぎ、後輩たちを育てることになったのである。


 初めての塾に利助は緊張したが、その利助に声をかけてくれた人がいた。


「利助、お前も松下村塾に来たのか」


 声をかけてくれたのは久保塾で一緒に学んでいた吉田稔麿よしだとしまろだった。


 稔麿は利助と同い年だったが、優れた才能を持つ英才で、本を一度読むとそれを利助にくれた。


「もらっていいの?」


 受け取りつつ心配する利助に、稔麿は軽くうなずいた。


「一度読めばすべて覚えるから、同じ本を二度開く必要はない。それなら利助に読んでもらうほうが本が役に立つ」

「稔麿はすごいな! ありがとう!」


 利助は喜んで本をもらい、その本を家で読んだ。


 後に利助が大人になった頃、稔麿についてこんな質問をされた。


「吉田稔麿という人は、伊藤さんと比べてどれくらいの人物でしたか?」


 その問いに伊藤は手を振って答えた。


「どうして僕と稔麿を比べることが出来ようか。僕とは比べ物にならない天下の奇才だよ」


 伊藤は明治になってからも稔麿の才能を讃えた。


 松下村塾は利助が入る前の年から塾としての活動を始めており、藩校はんこうとは違い、身分を問わずに入れる塾として評判になっていた。


 利助が入る頃には塾生たちも増えていて、また、松下村塾の講師は松陰だけでなく、他にもいた。


 松陰が萩野山獄に幽閉されていた時に仲良くなった富永有隣とみながゆうりんもその一人だ。


 利助は時々この富永の髪結いをさせられた。


 髪を結う時、利助は富永におくれ毛があるのに気づき、髪を整えるためにプチッと抜いた。


「……!」


 富永は黙って利助を殴った。


 不意を打たれた利助は思い切り顔を殴られ、吹き飛ばされた。


 背中をしたたかに打ち付けたが、利助は怒るでも泣くでもなく、ただへらっと笑って、富永の髪結いに戻った。


(ぬらぬらした奴じゃな)


 富永はそんな感想を抱いたが、低い身分の利助が怒ったりできようはずがない。


 百姓から中間の子になったばかりの利助と、長州藩主の小姓まで務めた富永とでは、身分があまりに違う。


 身分の低い人間は身分の高い人間に理由なく殴られても文句の言えない時代だった。

 若い利助は悔しかっただろうが、怒りを隠して耐えた。


 富永が暴力的な人間であろうと、松陰が認めた人物でもある。


 利助は頭の回転が良かったが、粘り強さも自制心も持っていた。

 これは明治になった後の伊藤博文にも見られる性格である。


 利助は松下村塾に入ることで、学問を続けることが出来ただけでなく、たくさんの先輩・友人が出来た。


 松下村塾には高杉晋作たかすぎしんさく久坂玄瑞くさかげんずいという松下村塾の双璧と呼ばれた優れた志士がおり、それに入江九一いりえくいち吉田稔麿よしだとしまろを加えた松下村塾四天王は、まさに時代をリードする存在であった。


 また、利助の勉強を見てくれた来原良蔵くるはらりょうぞうは、長州藩を代表する逸材いつざい桂小五郎かつらこごろう妹婿いもうとむこであった。


 来原と出会い、松下村塾に入ったことで、利助は幕末を代表する人々の末席まっせきに加わることになる。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る