第5話 師と出会う 1

 十五歳になった利助は元服げんぷくした。


 元服とは成人したということである。


 十五になった利助に母・琴子は藩の仕事につくように勧めた。


 しかし、利助はもっと大きな仕事がしたいと思っていた。


「母君、母君の教えはよく心に刻んでいます。でも、俺には大きな目標があるのです。どうか少し時間を下さい」


 母のいうことを聞くのが親孝行だとわかっていたものの、小さな孝行にこだわった結果、大きなことを出来なかったら、きっと後悔すると利助は考えていた。


 利助の母は利助に大きな目標があることを理解し、その後は藩の仕事につくようにとは勧めなかった。


 ところが翌年。


 十六歳の利助は藩に抜擢されて、相州そうしゅうに行くことになった。


 相州とは今の神奈川県のことである。


 なぜ利助が相州に行くことになったかというと、長州藩が沿岸警備えんがんけいびのために人を出すように幕府から命じられたからだ。


 利助が相州に行くことになったのが安政あんせい三年(1856年)。

 この三年前の嘉永かえい六年(1853年)にペリーが軍艦四隻を率いて浦賀うらがに現れた。


 ペリーはアメリカ大統領フィルモアの手紙を持って来ており、日本に開港通商を求めた。

 

 日本は外国船の出入りは長崎に限ると決めていたので、ペリーにも長崎に行くよう求めたが、聞き入れてもらえなかった。


 ペリーは測量そくりょうの名目で江戸湾深くまで入ってくるなど、脅すような行為をしてきたため、幕府は弱ってしまった。


 幕府はとにかくアメリカ大統領の手紙を受け取るだけ受け取り、返事を来年まで待って欲しいと頼んで、ペリーたちにひきあげてもらった。


 しかし、返事は先延ばししたものの、どうしたらいいのか決まらない。


 大名や知識のある人から意見を聞くと、港を開いて外国と交際しようという開国論かいこくろんと、外国船など追い払えという攘夷論じょういろん、それを合わせたような論が舞い込んだ。


 幕府の方針は意見がいまいち全員一致というようにまとまらならなかったものの、とにかく外国船に攻め込まれるのを防ぐため、銃などの武器を用意し、国の警備を固めることにした。


 この国の警備のために人手が必要になり、幕府は各藩に警備のための人を出すように求め、利助はその一員に選ばれたのである。


 利助が長州藩の一員として警備に加わったのは相州三浦郡(今の神奈川県三浦市)だった。


 相州警備の隊長は来原良蔵くるはらりょうぞうという長州藩士で、9歳で長州藩藩校・明倫館めいりんかん兵学師範へいがくしはんに就任した吉田松陰よしだしょういんとも交流があり、藩主直属の家臣である大組という家柄の人であった。


 来原は良い家柄の生まれにも関わらず、中間ちゅうげんの子である利助に目をかけた。

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