第一章 オオカミなんて怖くない (10)

 その日はそのまま、初めてのキャンプとなった。

 まずは結界箱を二メートル四方になるよう四隅に配置する。

 三つ目を置いた時点で、ホワンと結界が立ち上がった。そして四つ目を置くと、その結界が明らかに強固なものになった。

 これで自分の結界を解いても大丈夫だ。

 もっとも、すぐ目の前までオオカミが寄ってきたりするから、安全だと思っても怖いものは怖い。

 それでも結界の中なら安心して調理ができる。

 本当は野菜を切るところから料理をしてみたいが、それは楽しみのためのキャンプだからできることだ。サラが目標としているキャンプは、長距離を移動するため、あるいは狩りに付いていくためのものなのだから、なるべく手間をかけず、疲れないようにしなければならない。

 だから今日は、ハンターギルドで買ってきてもらったお弁当が夕ご飯だ。

 それでもせっかく買ってもらった、いや、自分で買ったキャンプ道具を使ってみたいではないか。

 サラは携帯コンロと小さい鍋を出し、カチッと火をつけた。

 湯が沸いたら、町で買ってきてもらった茶葉を入れ、火を止める。

 携帯ランプの明かりで、茶葉が膨らんで鍋の底に沈んでいくのを見極める。それから、上澄みだけをカップに注ぐ。

「私はそのまま。ネリーはお砂糖。はい」

「うむ」

 ネリーが満足そうにお茶を受け取るのを見て、サラはお弁当の蓋を開けた。

「これがギルドのお弁当なんだ」

「そうだ。私は久しぶりだな」

 少しずつ備蓄していたギルドのお弁当を、今日初めて実食するのである。

「パン、はいつものパンと同じだね」

 サラはお弁当箱の一隅にあったパンを取り上げてしげしげと眺める。二個入っていたそれは、いつもの黒パンで、ロールパンより少し大きいくらい。

「肉、は何の肉だろう」

「オークだな」

「オーク?」

「地下ダンジョンにいる魔物だ。魔の山にはいない。焼きたてはおいしいぞ」

「焼きたては?」

 不吉な言葉を聞いた。

 とりあえず、あと一つ。大ぶりな陶器のカップにしっかり蓋がしてある。確かに箱はかさばるし、いろいろと重いので、持ち運ぶのには不便な気もする。

「お野菜のスープ、かな?」

 ランプの明かりにかざして見るスープは冷えて脂が固まっていた。

「腹はいっぱいになる」

「確かに量は多いね」

 パンはおいしかったけれど、肉は硬かったし、スープは冷えて脂っこかった。

「みんな収納袋を持ってダンジョンに入るんでしょ」

「買えるようになったら即買うな」

「じゃあ、作りたてを収納袋に入れて売って、買った人がその場で自分の収納袋に入れ替えたら、熱いままなんじゃないの?」

「……冷たいまま売ってるから、そのまま買ってる」

 ネリーは思ってもみなかったという顔をした。

 そもそもお茶を沸かしていれている段階でなんなのだが、魔法は自由に使えるのだから、食べ物の中身だけとか温められないのだろうか。そもそも何もないところから水や火を出すことができる世界の人たちなのに。

 サラはふとそう思いつき、一口飲んだスープに手をかざしてみた。

 こんなときこそ魔法の教本を思い出すのだ。

 魔力は自分の思い描いたとおりの力になる。自分の魔力量に応じて、無理せず、自由に。

「温かくなれ」

 ふわんとカップから湯気が立ち上った。スープに浮いていた脂はなくなり、おいしそうなにおいが漂っている。サラは口をつけてみた。

「おいしい」

 そして、ネリーのスープのカップも温めてみる。

「おお! これはうまい」

 どうやら簡単にできるようだ。

 では、肉やパンはどうか。アツアツだと怖いので、やはりほんのり温める程度に魔法をかけてみる。

「ジューシーじゃないけど、少なくとも少しは柔らかくなったよ! ネリーのも温めてあげる!」

「いや、私のは」

 ネリーの肉はもうなかった。まあ、ハンターがもたもたご飯を食べていたら、魔物に襲われるかもしれないのだろうとサラは自分を納得させた。

「ま、まあいいや。これでいつでもおいしいご飯が食べられることがわかって収穫だったよね!」

「そうだな。お湯が沸かせるなら、携帯コンロなどいらなかったか」


「あ」

 お湯を沸かしてお茶をいれるのは楽しかった。きっと楽しみだけのキャンプもあるに違いない。うん。

 鍋を軽く洗い、からのお弁当箱とともに収納ポーチにしまうと、サラは今度はマットを出してきて敷いた。ネリーも自分のマットを出して、隣に並べて敷く。

「並んで寝ると嬉しいね。普段は別の部屋だから」

「そうだな。なんだか楽しいな」

 それから、サラは毛布も引っ張り出した。秋の外気は冷たいのだ。特に夜には。

 しかし、隣を見るとネリーは何もかけずに横になっている。筋肉か。筋肉のおかげで寒くないのだろうか。

「ネリー、寒くないの」

「寒くないぞ」

「筋肉があるから?」

「何のことだ? 身体強化の応用で、体の表面を覆うように暖かい層を作っているだけだぞ」

 サラはその、常識だろうという言い方にイラッときた。なんでも身体強化で済ませているところもなんとなく腹が立つ。あと、教えてくれてもいいのにとも思う。

「ということは、私だってバリアを張る応用で、体の周りを暖かくすればいいわけよね」

 サラの負けず嫌いの血がそういうことを言わせてしまった。

「暖かい層を作って、こう」

 全身を覆うと、顔が息苦しかった。顔は避けて、温度ももう少し下げて。

「できた」

 なかなか快適である。

「魔法、便利よね」

「普通、もう少しかかる。これだから招かれ人は」

 ネリーが少し悔しそうだった。

「だって、向こうには魔法はなかったけど、なかなか快適な生活を送ってたんだよ、私」

「今の生活に何の不満もないが。これ以上、何を快適にする必要がある?」

 確かに、ここの世界で生活するのにそれほど不便を感じたことはない。もっとも、骨が床に落ちていても気にしない人に、快適さを語ってほしくはないと思うサラだった。

 では、いざなくなってみると、困ったなあと思ったものは何だっただろうか。

「そうだなあ。ネット環境かなあ」

「ねっと? それはどういうものだ」

 そう言われると説明するのが難しい。

「目に見えない魔法みたいなものでつながれるところがあって、そこを通すと、いろいろな本の内容や、便利な知識を調べることができるの。例えば、コカトリスのおすすめレシピとか、卵の調理法とか」

「ここの魔法ではさすがにそれはできないな。本を読むか、その知識に詳しい人に教えてもらうしかない」

 困るほどではないが、あれば便利だなと思ったのが、魔物の調理をどうするかのレシピなのだ。

「それから、そのネットを通して、遠くに離れた人とお話しできたり、手紙を交換できたりするの」

「それはいいな」

「うん。例えばネリーがローザの町に行ったとき、『今ローザの町だ。野菜は何を買ったらいい』とか、『今ローザの町を出た』とか、遠くからでも連絡が届くの」

 もしそれができたら、三日間不安に過ごすことはなくなる。

「確かにそれは便利だが」

 ネリーは何かを考えるように言葉を切った。

「私には、ハンターには、それは必要のないもののような気がするな」

 それは、ネリーからは連絡をしたくないということなのだろうか。

「狩りをしている間は、たとえ休憩中であっても気が抜けない。今サラはどうしているだろうかと考えることはあっても、なんとか一人で無事にやっていると信じて一日外にいる。もし、いつでも連絡を取れると思ったら、気になって気になって、狩りが手につかなくなるような気がするんだ」

 確かに、ネット環境があれば依存する人はたくさんいるだろうと思う。

「ローザの町に行ったときに連絡が取れる、それは魅力だが、例えば何かの都合で一日連絡が遅れたとしたら、それはそれでなぜ連絡がないのかと心配になるのではないか?」

「ネリー、すごいね。確かにそういう問題はたくさんあったよ」

 サラはネリーの考えの深さに感心した。

「でも、直接会わなくても仕事の話ができるとか、直接会わなくてもお店の品物が注文できるとか、いろいろ便利なんだよ」

「ほう」

 これはネリーの興味を引けたようだ。

「でも、ここにいても、注文した品物を持ってきてくれる人がいないね、きっと」

「ガウッ」

「わあ、びっくりした。寝言なの? オオカミはいらないよ、もう」

 結界を取り巻くようにして森オオカミも休んでいる。

「オオカミ便? そのくらい役に立てばいいのにね」

「ガウ……」

 しょんぼりした声なんかではないはずだ。

「でも、そんなに便利でも戻りたいとは思わないんだよね」

「そうか」

 ネリーはただそれだけを口にすると、サラのほうに顔を向けた。

「その、置いてきてつらかったものはないか」

「あるよ。貯金」

 ネリーの聞きたかったのは、親しい人はいなかったかということだろう。

 でも、それは女神がなんとかしてくれると言っていた。家族は、サラが疲れずに生きていると知れば、もう会えなくてもなんとか納得してくれるだろう。

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