第一章 オオカミなんて怖くない

「サラ、無理するなよ」

「うん、大丈夫。ネリー」

 サラと呼ばれるのにもだいぶ慣れてきた頃には、ネリーと呼び捨てにするのにも抵抗はなくなり、山小屋もだいぶ片付いてきていた。

 女神は、あふれている魔力を吸収して減らすのが役割だとサラに言ったが、サラ自身には自分が魔力を吸収しているのかどうかはわからない。つまり、働いている実感がない。元社会人として、働かずに食べさせてもらうのは嫌なので、ネリーに頼んで仕事をもらっている。

 サラの仕事は、とりあえず部屋の片付けとご飯支度だ。

「できる範囲でいいから」

 最初遠慮していたネリーだが、部屋の様子を見てサラが予想していたとおり、家事が苦手だった。

 というか壊滅的だった。

 部屋の片付けはしない、座るところと寝るところがあればいい。食べ物はパンと干し肉と果物をかじるだけ。

 初日からしてサラの寝るところすらなかったのだから。

「確か予備の部屋があったはず」

「確かって、自分の住んでいるところなのに」

「必要な部屋以外は使わないからな」

 結局、台所付きの居間を挟んで、玄関から見て左側に客室が二つもあったが、

「初めて見たな」

 と物珍しそうに見まわしている始末だ。

「どんだけ自分の生活に興味ないんですか」

 あきれたサラだが、幸いベッドや家具にはカバーが掛けてあったので、ほこりがたまっているようなことはなく、初日からちゃんとベッドで休むことができた。

 次の日起きたときにはもうネリーは狩りに行っており、一瞬慌てたサラだったが、とりあえず自分のためにも、黙って部屋の片付けを始めた。

「疲れない体って最高」

 サラだってそれほど家事は得意ではないが、少なくとも片付けるのも料理をするのも好きだった。ただ、すぐ疲れるので心ゆくまでやったことがなかっただけのことで、いくら働いても疲れない体のありがたさを実感する毎日である。

 ただ、最初はパンと干し肉と果物だけの生活に、体を壊すかと思った。別にしょうや米を出せと言っているのではない。ネリーに言っても首をかしげるだけだったので、実際この世界にはないのかもしれないが。

 しかし、初日に部屋で踏んだのは、確か何かの骨だったはずだ。ということは、少なくとも骨付きの生肉はあるはずなのだ。

 それに野菜。これは絶対必要である。

 どうやら魔道具らしきコンロもあり、調理器具もそろっているから、一通りの料理はできる世界のはずなのである。

 サラがこんこんと食材と栄養の大切さを言い聞かせたおかげで、次の買い物から、肉や野菜やいろいろな調味料を買ってきてくれるようになった。

 ネリーは普段は魔の山の小屋付近で魔物を討伐し、その魔物の素材を売るのと、必需品の買い出しのために一〇日に一日くらいふもとの町へ行く。行きに丸一日、帰りに丸一日かかるため、町に一泊してくるネリーは、その時ばかりは山小屋を三日は留守にするので、サラは最初は置いていかれるのが少し不安だった。

 しかし、もともと一人暮らしだし、山小屋は全体が結界に覆われているから安全で、その生活にもすぐに慣れた。時々大きい何かがドーンと結界に当たっている気配はするが、結界の中には入ってこられないので安心だ。

 何が当たっているのかは怖くてまだ聞いたことがない。

「本当はこんなに頻繁に町に行きたくはないんだが、収納袋に入る量には限りがあってな」

 物語の収納袋のように、無限に入るということはないらしい。一〇日ほどでいっぱいになるので、そのたびに町へ売りに行っているというわけだ。

 それでも初めて見た収納袋に目を輝かせるサラへ、ネリーは丁寧に説明してくれた。

「サラも時々目にするだろ? 迷いスライム。収納袋に使う魔石には、迷いスライムの核が必要なんだが、一番大きい核を使った収納袋でも、ワイバーンが二〇頭くらいしか入らない」

 初日に見たワイバーンはそこらじゅうを飛んでいる。しかし地上に降りてくることはめったになくて、倒せるのは本当にまれなことらしい。あの時はいいお金になったとネリーは笑っていた。

 しかし、目にするだろうと言われても、サラは魔物についてまったく知識がない。

 毎日玄関の外のデッキに出て外を眺めてはいるが、見えるのは初日と同じ、ワイバーンと大鹿と高山オオカミ、それに新たに教えてもらったスライムだけなのである。

「迷いスライムって、あの、目の端にちらっと映っていなくなるあれ?」

「そう。割とそこらへんにいるスライムなんだが、何せすばしっこすぎて捕まえるのが難しい。剣士ではまず無理だし、魔法師も狙いを定めるのが難しくて、面倒だから迷いスライムのいるあたりを焼き払って手に入れるくらいだな。あとは地下ダンジョンの宝箱」

 だからそもそも収納袋が貴重で、小さい収納袋でも結構な値段がするのだという。

 それにしても、またよくわからない単語が出てきた。地下ダンジョン。地下ダンジョンがあるなら地上ダンジョンもあるのだろうかとサラはぼんやり思ったが、なにしろ今は迷いスライムについてインプットするので精一杯だ。

「ま、なければ仕事にならないんで、いっぱしのハンターはたいてい持ってるよ。そして私は腕のいいハンターだから、最大級に入るやつを持ってる」

 ネリーの目がほめてくれと言っているので、サラはくすくす笑いながらすごいねと言った。

 最初の不愛想な印象は一緒に過ごすうちに薄れ、実はただ口下手な人であるとわかってきた。一人で暮らしている割にはひとなつっこくて、おしゃべりではないけれども、サラと話すこともサラと過ごすことも楽しんでいることが伝わってくる。

 そんな口下手な人が、遠慮がちに自分の自慢をしようものなら、それは全力でほめてしまうに決まっている。

 そのくらい、ネリーのことが好きになっていた。

 ほめられて満足そうにしているネリーがかわいくて、サラはほっこりとした気持ちになった。

「私もいつか買えるようになるかなあ」

「うーん。サラにはハンターは無理そうだしな。どうやって稼いでいくかが問題だな」

 招かれ人だけれど、自立していきたいというサラの気持ちを、ネリーはちゃんと尊重して考えてくれている。しかし、自分がハンターだからか、世の中の他の職業のことをよく知らないらしい。

「手っ取り早いのは、薬草採取なんだが。ハンターも最初はよくやる」

 結局ハンターつながりで考えている。

 事務仕事や、販売員、接客などいろいろな仕事があるだろうにとサラは思うのだが。

 環境から考えてみると、二人の住む山小屋の目の前は草原だ。サラだって、かごか何かを持ちながら、風にそよぐ草花の中で薬草摘みをするのはとても素敵だと思う。それが生活の糧になるなら言うことはない。

「やってみたいけどね」

 サラは小屋のドアを開けてみた。

「ガウ」

 そしてドアを閉めた。

「ふう」

 ため息をついたサラは、そもそもまだ小屋の外に出られないのだった。

 正確には、小屋の結界が作動している階段の下までは下りられるし、小屋に沿ってぐるっと一周回ることはできる。しかし、結界のすぐ外にはいつもオオカミがうろうろしているし、草むらには、動物を溶かすスライムがあちこちにいる。

 もっとも、そのスライムのおかげで部屋のゴミはきれいさっぱり片付いた。

 ネリーが狩りに行くときに結界の外側にゴミをポイッと捨てておくと、次の日にはなくなっているというシステムだ。ネリーは便利だと喜んでいたが、そのくらいサラが来る前からやっていてほしかったとは思う。

「とりあえず、サラが外に出られるようになったときのために、今度薬師ギルドから初心者用の薬草一覧をもらってくるよ。知り合いもいるしね。あいつらのところ、いつも薬草不足だから、採取できたらすぐに売れるだろうし」

「うん。お願いします。このままじゃいつまでも町に行けないもんね」

 お金もない、強くもないのでは、いつまでもネリーにお世話になってしまう。

「いや、ここにいつまでいてくれてもいいんだ。女神ともそういう約束だろ?」

「うん。でもね。せっかく元気に動けるようになったから、もっといろいろなところに行きたいんだもの」

 サラがそう言うと、ネリーはなぜだか不服そうな顔をした。

 それからしばらく口数が少なくなり、サラを心配させたが、次に町に出て戻ってきたときには、何かを吹っ切ったようにすがすがしい顔をしていた。

 そして懐から大事そうに薄い二冊の本を取り出した。

「私は身体強化特化型の剣士だから、魔法で戦おうとも思わないし、薬草を採ろうとも思わない。だが、サラは剣士にはなれないだろう。だからほら、魔法教本と、薬草一覧をもらってきた」

「わあ、ありがと」

 サラはネリーにギュッと抱き着いた。そうするとネリーはいつもほんの少しためらい、それからギュッと抱き返してくれる。そうしてほっとしたように大きく息を吐くのだ。

 まるで疲れや嫌なことを吐き出してしまうように。

 だからサラは、ネリーのいやしになるのならばと思い、小屋にいるときはなるべく一緒に過ごすようにしているのだ。

 女の人とはいえ、不潔でぶっきらぼうな、よく知りもしない人との同居はかなり不安だったのだが、思ったよりずっと心地よく楽しく過ごすことができている。

 それはネリーが余計な干渉をしないせいかもしれないし、サラがあまりおしゃべりではないせいかもしれない。

 女二人なのに静かな山小屋で、剣の手入れをするネリーの傍らで二冊の本を読み込んだり、料理の下ごしらえをしたりするのが、それからのサラの過ごし方になった。

 もっとも魔法教本にしろ、薬草一覧にしろ、ハンターを目指せといっているようなものであったが、ネリーは無意識だったし、サラもそのおかしさにはちっとも気づかないのだった。

 それでも、本を買って読んだだけでは薬草は採れないし、魔法も使えない。サラは頑張って魔法を使う訓練をする決意を固めた。

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