プロローグ 女神の部屋 (2)
「わ、犬、そこ、ウウって」
「結界があるだろ」
「け、けっかい?」
そういえばいつまでたっても犬は襲ってこない。更紗はこわごわと振り向いてみた。
「ひいっ」
階段からほんの一メートルほどのところで、大きな犬の群れがうろうろしていた。そして更紗が振り向いたのを見て歯をむき出しにした。
「ガウ」
「いやっ」
更紗は座り込んだまま目の前の女の人の足にしがみついた。
その赤毛の女の人は、更紗を振り払いもしなかったが、助けようともせず、ただ不思議そうにつぶやいた。
「お前……。苦しくないのか」
「く、苦しいです! 犬怖い!」
恐怖で呼吸が止まりそうだ。更紗は本当は犬が嫌いなわけではない。むしろ好きなほうだ。でも、近くで見たその群れの犬は大人の身長をはるかに超える大きさで、それが歯をむき出しにしてうろうろしていたら、かわいいねとはとても言えないのだった。
「犬じゃなくて、高山オオカミだ。いやそうじゃなくて」
その人は頭に手をやると、その手を困ったようにうろうろと動かした。
「まあいい。もともと鍵はかかっていない。入るといい」
「ありがとうごじゃいます!」
ごじゃいますってなんだ。外見はともかく、中身は二七歳なのに。助かると思ったら急に震えがきた更紗は、女の人にしがみついていた手を離し、なんとか自分で起き上がると、ふらふらと開いていたドアの中に入った。
「ウウー」
「散れ」
「キャウン」
女の人の一言でうなっていた犬は去っていった。いや、言葉だけじゃなく、実際に何かが飛んでいった気がするが、とにかく、犬、いや、オオカミは去った。
「ぐえ、ぐすっ」
安心したらなんだか涙が出てきた。自分でも大の大人が、と思わなくもないが、女神によると一〇歳に戻っているのだからいいだろう、ちょっとくらい涙が出ても。
「まあ、そこらへんに座れ」
「は、はい」
更紗は涙を袖で拭くと、座るところを探した。
脱ぎ散らかした服。クシャッとした何かの毛皮の塊。茶色くなったリンゴの芯。何かの骨。ほね?
「む、むり」
きっと大切にしてもらえるからって、言ってたのに。
女神はたいてい
部屋を見て絶望した顔をした更紗のことを、その女の人は、やっぱり困ったような顔をしてちらりと見ると、椅子と思われるものから、荷物を床に払い落とした。
「ここに座るといい」
更紗がそこに座ろうとすると足もとで何かがバキッといったが、聞かなかったことにした。とりあえず、椅子の上には何もない。更紗は少し高いそれによじ登るように座った。
女の人は、もう一つ隠れていた椅子を引っ張り出して座り、テーブルに片肘をついて頬をのせると、いきなり問いかけてきた。
「お前、招かれ人か」
「まねかれびと?」
更紗は首を傾げた。あの女神はそんなことは言っていなかった。というか、そもそもたいしたことは言っていなかった。
「女神かどうかはわかりませんが、女神っぽい人に、魔力を必要とする体質だということと、この世界に体を合わせるということと、それだけ言われて」
ほかにも何かを言われたような気がするが、とっさには思い出せなかった。
「女神のような人。この世界。魔力を必要とする。やはり招かれ人か。道理でな」
道理といわれても、更紗はよくわからず途方に暮れた。
その女の人は片肘をついたまま、面倒くさそうに説明してくれた。
「別の世界から来た人間、いわゆる招かれ人は時々来るんだ。お前のように突然現れる。年齢はまちまちだが、たいてい若い」
そういえば女神も、地球から何人も送っていると言っていたなと更紗は思い出した。この世界に体を合わせるために一〇歳くらいにすると言われたが、年齢がまちまちということは違う人もいるのだろうか。他にも何か言っていたような気がするのだが。そうだ。
「ええと、それから魔力を吸収することになるって言っていたような?」
更紗の言葉に、その人は驚いたように右の眉を上げた。
「そのとおりだ。招かれ人は魔力を吸収し、その魔力を無限に使えるからハンターとして活躍していることが多いな。引っ張りだこだぞ」
吸収するだけでなく、それを使えるというところにも引っかかったが、それよりも気になるところがあった。
ハンター。つまり、狩りをする人のことなのだろう。
更紗はさっきの外の様子を思い出した。
むやみに大きい鹿。
その大きい鹿を鉤爪でわしづかみにするさらに大きい鳥。
凶暴なオオカミの群れ。
それを狩る?
「ハンターは、無理です」
更紗は首を横に振った。あんな怖い生き物を狩るなんて無理に決まっている。
「だろうな。さっきも戦うことより食べられることを選んでいたくらいだ」
女の人は腕を組んで天井のほうを見上げた。
「女なら貴族に嫁ぐこともできる。大きな屋敷で、それは大切に守られて暮らすらしいが」
「それもいやです。せっかく疲れずに暮らせる世界に来たのに」
いきなり違う世界に放り込まれ、空気清浄機のようなものなのだからそこにいるだけでいいと言われても、何をしたいかなど決められるわけがない。
だが現に疲れてもおらず、だるくもない。せっかく動けるようになったのだから、活動的に暮らしたいではないか。
更紗はさっきまでオオカミに襲われかけ、命の危機だったことなどすっかり忘れて、明るい気持ちになった。別に今すぐ決めなくてもいいだろう。
「もう一度聞く。お前、今苦しくないか」
少し元気を取り戻した更紗に、女の人が改めて確認するように問いかけた。
「苦しくはないです。今までにないくらい、元気です」
「ふむ。圧迫感もないか」
「ないです」
何が聞きたいのだろうかと更紗は思った。あえて言うなら、散らかりすぎて部屋の居心地は悪いが。
「よし」
何がいいのか、女の人は大きく
「いずれにせよ、いくら悩んでも、お前はしばらくここからは出られない」
「出られない?」
更紗はあっけにとられた。
「外を見ただろう。ここは北の魔の山だ。ワイバーンが飛び、大鹿が群れ、高山オオカミが走り回る。大人の足で近くの町まで三日。私なら丸一日でたどり着けるが、子連れでは無理だ」
更紗の見たあれは、鷲でも鷹でもなくワイバーンだったのだ。道理で羽が小さいと思った。ということは、あの鹿もきっとただの大きい鹿ではないんだな、と更紗は若干気が遠くなる思いだった。
しかし、無情にも女の人は話を続けた。
「つまり」
「つまり?」
「お前が強くなるまで、この小屋付近からは離れられないということだな」
異世界に来たけれど、不潔な小屋に、この人とずっと二人きりということだ。
更紗は軽く絶望しかけた。
しかしすぐに立ち直った。
更紗は体力がなくて、やりたいことをやりたいようにできたことがなかった。だから諦めて現実的に対処することには自信がある。
更紗はいいことを数え上げてみた。
少なくとも、同居人は女の人だ。しかも先ほどの様子を見るに、強い。一見わかりにくいが、親切でもある。
不潔だが。
だが、それは更紗がなんとかすればいい。
「私はネフェ、いや、ネリー。ネリーと呼んでくれ」
その人は、ほんのわずか口の端を上げると、更紗に右手を差し出した。こぶしを守るためか、指なしの黒い革のグローブをはめている手は、大きくて力強かった。
「私は更紗といいます。一ノ蔵更紗」
「イチノーク・ラサーラサか。珍しい名前だな。イチノークと呼べばいいか」
「いやいやいや、サラサが名前です」
「つまり、サラだな」
更紗のことをサラと呼んだのはこの人が初めてだ。なぜ短くする必要があるのか。家族も友だちもみんな更紗と呼んでいたのだ。
でも、それもいいかもしれない。新しい人生だし。しかし更紗自身は知らない人を呼び捨てにすることには抵抗を感じた。
更紗は「ネリーと呼んでくれ」と言った人を見上げた。大きい。更紗が小さくなった分、判断が難しいが、たぶん一七〇㎝以上はある。そして地球の更紗と同じくらいの年に感じた。つまり二〇代後半から三〇歳くらいだ。
そして整った顔立ちをしている。服装こそ動きやすそうな男性のものだが、
日本ではあまり見たことのない容姿の人と、普通に話ができている不思議さにようやっと気づいた更紗は、ああ、ここは異世界なんだなとすとんと胸に落ちたような気がした。
「ネリー?」
頑張って呼び捨てにし、おずおずと手を差し出すと、その手はネリーにがっちりと握られた。なぜかネリーは一瞬苦しそうに目を閉じた。
「ネリー、か」
「いい」
いいんだ。
思わず心の中で突っ込んだ更紗だったが、苦しそうに見えたのは、どうやらネリーと呼ばれることを堪能していたらしい。案外面白い人かもしれない。
ネリーは目を開けると、今度こそニコッと笑った。
今まで髪と目の色にしか目がいっていなかった更紗は驚いた。
笑うと印象がガラッと変わる。生命力にあふれた、本当にきれいな人だ。
「私の仕事はハンターだ。魔の山の管理人をしている」
「はい。しばらくよろしくお願いします」
魔の山とは何かも、何の管理をしているのかもさっぱりわからなかったが、そのうちわかるだろうと更紗は気楽に受け止めた。少なくとも、拠点は確保したのだ。
こうして更紗の異世界生活が始まった。
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