魔術師/婚約破棄された元貴族令嬢/ギャンブラーのティアーナ (2)
「……私、アレックスに用があるのだけれど」
「そのアレックス様が私と話していたのが見えませんでしたの? そんな風に男性を困らせるのは淑女としていかがかと思いますわ」
「ちょっとアレックス。この子、帰らせてくれる?」
アレックスは眉間を手で押さえ、溜め息をつく。
「……やめてくれ。他の客や店員に迷惑だろう」
「だ、だって……」
「だってじゃない!」
アレックスが、テーブルを
彼がこんな風に声を荒らげている姿を、ティアーナは初めて見た。
「ア、アレックス、落ち着いて……どうしたの……?」
ティアーナはアレックスの様子に
アレックスは息を吸って吐き、落ち着きを取り戻そうとする。
だがそこから怒気を消し去ろうとまではしなかった。
「キミはいつもそうだ、僕のことなんてちっとも見ていない! さすがに鈍すぎるんじゃないか?」
「ど、どういうこと……?」
「その魔術自慢だよ! もうウンザリなんだ!」
ティアーナは、思わずよろめいた。
他の男に魔術の腕を妬まれることは何度もあった。女だてらにでしゃばって、などと言われることもあった。だがそれもこれも、
「な……なんで……? 僕は魔術師になるから手伝って欲しいって言ったのはあなたなのに……。私は、あなたのために」
頑張ったのに。
その言葉は、ティアーナの口から出ることはなかった。
ティアーナとアレックスの間には、二人だけの約束があった。
結婚後の人生を見据えて魔術を研鑽する、ということだった。アレックスの父は今でこそ男爵家の当主として
事実、ティアーナも魔術の腕を見込まれてアレックスの父親から「是非我が息子の妻に」と請われた。そして首尾良く見合いが終わって恋人のような付き合いが始まったとき、「女性だからといって魔術を学ぶことに遠慮したり手加減する必要はない」、「家のためにもなることだし、君が望むならば応援する」とさえ言ってくれた。
ティアーナの脳裏に浮かんだ過去の言葉は、目の前の彼のかん高い声がかき消した。
「僕のために頑張るって? ちょっとは頭使ってくれ! キミが一番になって僕がどれだけ陰でバカにされてると思う!? もう少し加減しろよ! 僕の生活に役立って、僕の名誉が傷つかない範囲でほどほどに頑張れば良いってことくらい、空気を読めばわかるだろう!?」
「だ、だって……遠慮しなくて良いって……」
「どうしてそんな
「ちょ、ちょっと待って……どうしたのよアレックス……」
そこで、くすくすとささめくような笑い声が聞こえた。
ティアーナは、その笑った人間の顔をきっと
「あら、怖いですわティアーナ様」
「……まずは声を掛ける前に名乗ったらどうなの?」
「ふん、本当に他人に興味がありませんのね……高慢ですこと。ま、良いでしょう。私はデルコット家の長女、リーネと申します」
「……ああ、思い出したわ。最近学校に来た成り上がりの小娘ね」
デルコット家とは元々商家であり、竜を用いた陸運や海運で大きな利益を生んできた。
三代前まではただの庶民だったそうだが、迅速な輸送網の構築が国に利益をもたらしたと認められ、今や男爵の位を手に入れていた。
最近は金融業にも手を伸ばし始めており、金に困った貴族に金を貸し付けて恩を売ることで、高位貴族でさえ油断できないほどの力を持っている。
その影響力は貴族学校にも及び、多くの貴族子女がリーネに弱みを握られていた。
ティアーナは、リーネと言葉を交わしたことはなかったが、顔と名前を知らないわけではない。
先ほど無視したのはせめてもの
「ティアーナ! そういう口のきき方はやめてくれ! リーネはただでさえ根も葉もない
「根も葉もない、ですって?」
ティアーナは知っていた。リーネが自分の家の権勢を振りかざし、多くの学生たちを召し使いのように扱っているのを。公然の秘密であったが、事実として、ティアーナは困り果てた同級生から相談を受けている立場だった。
「ああ、僕は彼女から相談を受けていたんだよ。嫌がらせを受けているとね。しかも……」
苦々しい溜め息をつくアレックスの手の甲に、リーネが手を重ねた。
「ティアーナ、キミがその嫌がらせの犯人だなんて」
「はあ!?」
ティアーナは、思わず素で驚きの声を出した。
その驚きの顔を見たアレックスとリーネは、にたりと笑った。
「ティアーナ、キミが権力を振りかざしてリーネを陥れようとしたことはわかっているんだよ」
「そうよ。そこで救いの手を差し伸べてくださったのがアレックス様なの」
ぎり、とティアーナは歯を食いしばった。
「それにティアーナ様、あなたは学校の教師たちを誘惑したのではありませんの?」
「な、なんですって……!?」
ティアーナは、リーネを射殺さんばかりの目で睨み付けていた。
「わかっているの? あなた、私だけじゃなくて学校そのものを侮辱したのよ」
「はぁ……わかってらっしゃらないのはそちらよ。女を首席にするような人たちに何かあったと思うのが常識的な物の考え方というものよ」
「……出るところに出て、白黒つけたいのかしら?」
名誉を重んじる貴族社会において、こうした侮辱、特に貞節についての虚言はれっきとした犯罪となる。
ティアーナの言葉は脅しでもなんでもなく、裁判を申し立てることは十分に可能だ。
だがリーネは、ティアーナの言葉を聞いて
「ええ、大歓迎ですわ。もっとも、その前に学校の教師たちが先に白旗を揚げるでしょうけれど」
「……どういうことよ」
どうせはったりだ。ティアーナはそう思い込もうとした。
だが目の前にいる女は、多くの人間の弱みを握り、陥れてきた。
そして今、ティアーナの悪い予感に答えを出したのはアレックスだった。
「ティアーナ。この学校の教師陣には賄賂を受け取って入学試験の合格者や生徒の成績を操作した疑いが持たれている。そしてキミもそこに賄賂を贈り誘惑をかけた疑いがある」
「そ、そんな馬鹿な話……!」
だが、そう言いかけてティアーナは気付いた。
アレックスは必ずしも勤勉ではなかったが、女にたらし込まれて、その言い分をありのままに信じるほど愚鈍ではなかった。化かし合いを日常とする貴族社会で
今アレックスとリーネが手を取り合っているということは、二人がただ浮気をしたというだけではなく、利益で結びついている。
そしてそのために、ティアーナを陥れるという選択をしたのだ。ティアーナの頭の冷静な部分が、そのように事態を分析していた。
「だから僕はキミとの婚約を破棄するつもりだ……二度と僕の前に姿を見せるな!」
そのときのリーネとアレックスの醜悪な笑みを、貴族の負の側面を体現した言葉を、ティアーナは生涯忘れられそうもなかった。
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