将来の夢と服飾師 (5)
ルチアが自分でデザインした男物のスーツを仕立てたのは、初めて工房に行ったときから、六年ほど
「授業料です!」
冬祭りの前日、ラニエリの工房でそう言って彼に見せたのはスーツとセーター。
シングルのスーツは上着は少しだけゆるめの長め。両のポケットは深く、ラニエリが持ち歩く巻き尺もきっちり入る。揃いのトラウザーはやや細身、いつもの銀の靴の高さに合わせ、裾の長さはミリで調整した。
上質な羊毛で、色は一見大人しいムーングレー──わずかに青の入った灰色。
しかし、よく見ると表面にライン状に光沢があり、陽光にぬらりと銀を反射する。
「これは──魔羊を混ぜた生地かい?」
「はい!」
魔布は高いので手が出ないが、魔羊を混ぜて作った生地はルチアの貯金でぎりぎり買えた。とことん吟味し、光沢のきれいなものを選び、水通しをし──縫いはただただ基礎通り、丁寧に行った。
彼は笑顔で上着を持ち上げ──そこで
「ルチア……」
上着の裏地は黒。左側には洋裁道具が入るいつもの上着と同じ機構、右には彼が使っている小さな板状の
これで外から見えぬのだからもったいない、そう思われるかもしれない。でも、これを思いついたとき、これこそラニエリだと確信したのだ。
黒地に光る銀と白の魔糸。それこそは彼の色。裏地の背の模様は、どこをどう見ても服飾師である。
そしてもう一枚。黒い薄手のハイネックセーター、こちらはファーノ工房長作。
上質な羊毛で、基本は編み機だが、アームホールやサイドの調整は手製。ルチアの隣に立つ制作者は、にやにやとラニエリに笑いかけていた。
「ちょっと着替えてくるよ」
そう言って、工房隣の宝物庫──布と糸の部屋に行ったラニエリは、やがて満面の笑みで戻ってきた。
「ありがとう、ルチア、ルーベルト! 最高の着心地だ!」
黒いセーターにムーングレーのスーツを着た彼は、とことん格好よかった。
その後、工房の作業机を片付け、ワインで乾杯した。
料理は下の食堂から運んできて、一日早い冬祭りと、ルチアが一人前の服飾師になったことを祝われた。
「ここまで私のことを考えてくれた服は初めてだよ。ルチアはもう大丈夫だ。胸を張って服飾師と名乗っていい。もっとも、この先も長い長い上り坂だがね」
褒められつつも、もっとがんばれと言われる、当然の結果だった。
着てもらったことではっきりわかる。
ルチアが作った服は確かにそれなりのデザインで、凝った作りではある。
だが、ラニエリがいつも着ている、彼が作った服には到底及ばない。
次こそはもっと似合う服をプレゼントしよう──ルチアはそう誓った。
それでも、ラニエリは上機嫌で飲みながら、着やすさと美しさを褒めてくれ、布と糸の話をし、雑談になり──不意に告げた。
「ああ、来月から
「ラニエリ?」
「旅行ですか?」
突然のことに父と共に聞き返すと、彼は目を糸のようにして笑った。
「あの国の絹、そして刺繍はすばらしい。時間をかけて、ゆっくり回りたいと思うんだ」
「ゆっくりって、どれぐらいですか?」
「一年か、三年か──この際だから、イシュラナとエリルキアも見てきたいね。いつか世界を回って、いろいろな服を見るのが夢だったんだ。そろそろ行かないと、私も歳だからね」
「工房はどうするんだ?」
「一度たたんで倉庫かな。二階と三階は下の食堂の人に任せるし、布は布屋に任せるよ」
「ずいぶん急ですね……」
「
『何もいりません、行かないでください』──そんな言葉が一瞬出そうになった。
だが、ラニエリは、父と同じぐらいの年齢だ。他国へ長旅に出るとしたら、やっぱり早い方がいいだろう。
「出発の日を教えてください。港へ見送りに行きますから」
「嫌だよ、ルチア。きっと泣くから」
「泣きません!」
今、すでに泣きそうになっているけれど、それは酔っているからである。
グラスに少しだけある赤ワインを一気飲みし、ルチアは声大きく言う。
「絶対、笑ってお見送りします!」
「ルチア……」
ラニエリはその黒い目で自分をじっと見て、少し困った顔をし──その後にいつものように艶やかに
「泣くのは私だよ」
結局、ルチアはラニエリが
「父さん。ラニエリ、手紙くれるかしら?」
「……あいつはすごく筆無精だぞ。俺は会ってから一度も手紙をもらったことがないからな」
靴下編み機を見つめながら、父は長くため息をついた。
そして、無事に旅立ったことを知らせるかのように、ルチア宛てにたくさんの荷物が届いた。
ラニエリの工房で見慣れたトルソー、裁縫箱、そして、ちょうど部屋に収まるぐらいのタンス、その中いっぱいに入れられた布と糸。
数年は会えなくなるのだ。せめて短い手紙か、カードの一枚ぐらいは入っていないものか、ルチアはそう思って片っ端から確認し、紺革の裁縫箱を開けて固まった。
刃だけがミスリル張りの、青銀のハサミ。
ラニエリの上着の内側にいつもあったそれをつかむと、ぽろりと涙がこぼれた。
だが、それをいつかもらった魔蚕の白布──今はとっておきのハンカチにしたそれで
「ラニエリが帰ってきたら、三つ
そして彼に、長い長い上り坂を上ってきたのかと驚かせるのだ。
それからのルチアは、家の工房のほか、
理由はお金である。
ファーノ工房で作るのは、靴下と手袋がメインだ。たまにベストやセーターなどもあるが、基本、単価はそれほど高くなく、利益もそれ相応である。
一家が食べていくのにはまったく困らないが、ルチアには、欲しいものが生まれていた。
ラニエリの工房は毎回違う服が置かれ、いつも素敵だった。
服飾通りの店のショーウィンドウは、見るだけで心が躍った。
いつか、ラニエリのように自分の工房、そして服を売る店も持ちたい──ルチアはそんな夢を持つようになっていた。
そして、かかると思われる金額を概算ながら計算し、道がとてつもなく遠いことも理解した。
だが、あきらめようとは思わなかった。
ラニエリに教わった自分だ。
どんなに長い上り坂でも、止まらずに歩んでいけば、いつかきっと手が届くだろう。
そして、もう一つ。
自分の身の丈には合わない、無理かもしれない──そんなふうに気持ちがふさぎかける度、鮮やかに思い出す声がある。
『似合わないと言って、ここであきらめたら、ずっと着られないじゃないか。人のことなんか気にするな。本当に好きなら着てしまえ。君はレースもリボンも、きっと似合う』
夕焼けのお兄ちゃん──路地裏の少年が言った言葉。
自分はもう、あの日に泣いていた
好きなリボンを髪に、レースの付いた服を着て、好きな道を進んでいる、
ルチアはもう、あきらめるつもりはなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます