青空花の少女 (2)

 少しだけ黙り込んだ二人の前、路上をいくつもの小さな影が横切り、からす達がそろって鳴いた。夕焼けは一段赤さを落としている。巣に帰る頃合いなのだろう。

「そろそろ暗くなるな。通りまで送ろう」

 そう言った少年は、ゆっくり立ち上がる。

 兄よりも背は高く、ルチアは思いきり見上げる形になった。それを気にしたのか、彼はそっと手のひらを自分に向ける。

「お手をどうぞ、お嬢様」

「あ、あの、近くなので大丈夫です!」

「では、おうちの近くまで、お送り致します」

 これはもしや、祖母と母の話でしか聞いたことしかない、淑女のエスコートなるものではないだろうか?

「あ、ありがとう、ございます」

 ルチアは差し出された手のひらに恐る恐る自分の指を重ね、ぎくしゃくと歩き出した。

 夕日に影が一番長く伸びる時間、彼は自分の歩幅に合わせてゆっくりと歩んでくれる。

 ルチアの周囲には、年上でもこんな礼儀正しい少年はいなかった。

 すぐに家の前に着いてしまったのが、ちょっと残念に思えた。

「ここで本当に大丈夫だな?」

「うん、ありがとう。ええと──」

 少年に確認され、その名を聞いていなかったことにようやく気づく。

 初めてのエスコートに緊張しまくっていたルチアは、沈みきろうとする夕日を目に、思わず叫ぶ。

「またね、夕焼けのお兄ちゃん!」

「……夕焼けの、お兄ちゃん……」

 あはは、と初めて声をあげて笑った彼の口元を、夕日が淡く照らす。

 その薄い唇が、とてもきれいな弧を描いた。

「またお目にかかりましょう。青空花ネモフィラのお嬢様」

 少年は右手を左肩に当てた優雅な所作で挨拶をし、夕日が消えかかる街並みに消えていった。

 ルチアはその背を、見えなくなるまで見送った。


 夢を見たようなおもいで赤いレンガ造りの家に入ると、玄関に四歳上の兄がいた。

「お帰り、ルチア。よかった、ちょうど迎えに行くとこだったんだ。もうすぐ夕飯だぞ」

「お兄ちゃん、図鑑見せて!」

「え、図鑑? 植物図鑑のことか?」

 ルチアと同じ濃い青の目を丸くして、兄、マッシモが聞き返す。

 兄は草木染めが好きで、お高い植物図鑑を持っているのだ。

 厚くて上質な紙の一枚一枚が、版画で線を刷ったものに手で色付けしてある高級な本だ。庶民にはなかなか手が出ない。

 兄が気合いを入れまくり、半年分のこづかいと家族工房を手伝った給金を、すべてつぎ込んだ宝物である。

 ルチアは探している花があるので、すぐに見たいと懇願した。

 マッシモは、『触らずに見るだけであれば』と条件付きで了承してくれた。

 兄の部屋に入ると、彼が白い布手袋をつけて植物図鑑をケースから取り出すのを、左右に体を揺らしながら待つ。

「で、ルチアは、なんて花を探しているんだ?」

「『青空花ネモフィラ』!」

「ああ、それならあるぞ」

 兄は索引をたどり、すぐにその花を見つけてくれた。

「ほら、ここ。空色の花で、春に咲くんだ」

 開かれたページに載るのは、真ん中が白く、花弁の先端に向かって空色になる、小さな花。

 三本ほどが描かれたそのは、確かにかわいくはあるのだが、やはり地味である。

 自分に似合うのは、やはり地味な花なのだろう──そう、ルチアが肩を落としかけたとき、マッシモが次のページをめくった。

 そこにあったのは、見開き一面の青空花ネモフィラ畑と、太陽が輝く青い空。

「きれい!」

「すごい景色だよな……東街道の途中に青空花ネモフィラの群生地があるのか。ええと、『宿場街の近くで有名な観光名所。恋人同士や夫婦で行くのによい』って、まったく、高い図鑑に無駄なことを書かなくてもいいのに……」

 いまだ女の子とろくにしゃべれない兄が、少々くらい声になっているが気にしない。

 植物図鑑の作り手が青空花ネモフィラを好きなのか、それとも観光名所の宣伝のためかはわからない。

 だが、天と地面が美しい空色で描かれたその花の見開きの画は、ルチアの心をとことん晴れやかにさせた。

 地味などではない。小さいけれど、とてもかわいくて、とてもきれいな花だ。

 今まで見たどんな花よりも好きだと思えた。

青空花ネモフィラの花言葉は、『れん』『成功する』か。ずいぶん方向性が違うのが並んでるな……」

 兄が不思議そうなをしているが、とてもいいではないか。

 可憐でかわいいお洋服を着て、成功できるのであれば──そんな素敵なことはない。

 自分が望むのは、きっとそれだ。

 ルチアが思いきり笑顔になっていると、兄が尋ねてきた。

「そういえば、ルチアはなんで急に青空花ネモフィラなんて調べようと思ったんだ? この辺では咲いてないだろ?」

「君なら青空花ネモフィラの花の方が似合うって言われた!」

「は?」

 目を丸くしたマッシモは、図鑑を閉じることなく、続けて尋ねる。

「ルチア。それ、誰に言われた?」

「知らないお兄ちゃん」

「はぁ!?」

 この後、ルチアはマッシモに根掘り葉掘り聞かれた上、家族にも知らされ、見知らぬ人とひとのないところで話すな、夕方に一人でふらつくなと厳重注意を受けた。

 その上、今後は一人で路地裏に出入りすることを禁止された。

 それでもルチアは、兄を連れて路地裏へ行ったり、路地の近くを何度もうろついたりしてしまったが──あの少年と再会することはなかった。


『ルチアは夢でも見たのではないか?』

 家族はこっそりとそう言い合いながら、自分を心配していた。

 夢などでは絶対ない。彼は確かにあの場所にいて、ちゃんと自分に教えてくれた。

 あの夕焼けの中、青空花ネモフィラが似合うと言われた日から、ルチアは決めたのだ。

 自分は自分で決めて、大好きな服を着る。気に入った髪飾りをつける。

 誰に何と言われようと、自分が好きなものを好きであり続ける。

 『夕焼けのお兄ちゃん』が言っていた通り、誰かのせいにして、あきらめたりしない。


 だが、思い出す度にただ一つ、悔やまれることがあった。

「あのお兄ちゃんの名前、聞いておけばよかった……」

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