婚約破棄の後始末 (3)


 ・・・・・・・


 会議室にトビアスが入ってきたのは、二時ちょうどのことだった。

 部屋にはダリヤの他、ギルドの立会人と公証人がすでにそろっている。

 大きなテーブルをはさみ、トビアスとダリヤは対面で、その横に一人ずつ立会人が座る。公証人は席を一つあけて座った。

「これより、婚約証明の届けに基づく、契約の破棄手続きと共同名義口座の清算を進めさせて頂きます。ギルドより立会人は二名、副ギルド長のガブリエラ・ジェッダと、私、契約書管理担当のイヴァーノ・バドエルがつとめさせて頂きます」

 自己紹介をしたイヴァーノが、ガブリエラと共に軽く会釈する。ガブリエラはダリヤの隣、イヴァーノはトビアスの隣に座っていた。

「公証人は私、ドミニク・ケンプフェルがつとめさせて頂きます」

 白髪の老人も軽く会釈をした。

 ドミニクは商業ギルドに最も長くいる公証人であり、指名数は一番多い。

 ダリヤの父もトビアスの父も、いつもお世話になった公証人である。

「では、最初に契約の破棄のため、商業ギルドの受注における、お二人の共同名義口座を解消、清算させて頂きます。トビアス・オルランド様、ダリヤ・ロセッティ様の共同名義で預けられている分が金貨四十枚、こちらを全額、お二人に半分ずつ二十枚の返還ということでよろしいですね」

 ダリヤとトビアスが了承すると、イヴァーノは口座の記入書類の横に包みを広げた。

 それぞれの前に青い布が置かれ、そこに二十枚ずつの金貨が積み上げられる。

 この金貨二十枚で、おおよそ二百万ぐらいだろうか。今まで商業ギルドに登録していたオリジナルの魔導具の利益や、依頼品で作った物の売り上げなどだ。

 一般的には少し大きな金額に思えるが、魔導具制作は材料費や研究費がかかるので、どうしても多めの蓄えが必要になる。また、こちらの世界には保険などはないので、病気やのときの非常用貯金でもあった。

「では次に、婚約証明の中の、婚約破棄に関する内容です。『婚約破棄の原因となった方より、相手に対し、慰謝料として金貨十二枚』となっています。これはどちらからですか?」

「私からです」

 いつもの『俺』を『私』に変えて、トビアスが言う。

 続けて、『金貨十二枚か』と、小さくつぶやいたのが聞こえた。

 この慰謝料が安いと思っているのか高いと思っているのか、ダリヤにはわからない。

「では、ダリヤ様に十二枚となります。トビアス様、慰謝料を返却分から移動させて頂いてよろしいでしょうか?」

「はい」

 二十枚の金貨のうち十二枚が、ダリヤの方へ移動した。

「次に婚約期間中に新築した家屋に関する契約です。家の代金が金貨百枚、トビアス様五十枚、ダリヤ様五十枚にて購入。現在、名義は共同となっております。こちらは家を売却しての利益の二分割、または以後の所有を希望する側が、相手が購入時に支払った金額を返却することとなっています。これについては、いかがなさいますか?」

「私が所有を希望します」

 トビアスが当たり前のように言うのを、無言で聞く。

「わかりました。では、ダリヤ様に金貨五十枚をお支払いください」

 イヴァーノの言葉に、トビアスは目の前にある金貨八枚の横に、持ってきたかばんから金貨二十枚を並べた。そして、青い布ごと、ダリヤの前へ押し出してきた。

「ダリヤ、残りは少し待ってくれ。家の代金分が今、手元にないんだ。入り次第返すから」

「は?」

 間の抜けた声を出したのは、ダリヤでなく、トビアスの隣に座るイヴァーノだった。それを補うように、ガブリエラが言葉を続ける。

「お支払いが終わるまで、名義のご変更はできませんよ?」

「ええ、足りない分は、直接ダリヤに返していきます。ダリヤの了承があれば、役所で名義の変更は可能ですよね?」

「………」

 ダリヤは絶句した。

 どこの世界に婚約を破棄した女から、浮気相手と住む家の代金を借りようとする男がいるのか。

 しかもそれを陰でこっそりとお願いしてくるのではなく、商業ギルドで立会人と公証人をそろえた場で、さも貸してもらうのが当然のように言いきる馬鹿がいるのか。

 残念なことに、目の前にいるわけだが。

 今まで知っていたトビアスと、目の前の男がどうしても重ならない。

 同席していたドミニクが、二度ほど大きくせきをした。

「支払いのない状態での名義変更は大変トラブルになりやすいので、おすすめできませんが……いかがなさいますか?」

「名義の変更は支払い後でお願いします」

 ダリヤは当然、きっぱりと断る。

「それは困る! エミリヤに、すぐあそこで暮らすと約束したんだ!」

 沈黙があった。

 思わず言ってしまったことにろうばいしつつ、次の言葉が出ないトビアス。

 お前は何を言っているんだという疑問符が、くっきり顔に張りついたイヴァーノ。

 口元には美しい笑みを浮かべているが、目がまったく笑っていないガブリエラ。

 表情をまったく変えないまま、書類を指が白くなるほど押さえているドミニク。

 ダリヤはその様子を視界に入れながら、婚約中の悪くなかった思い出を、全力で脳内シュレッダーにかけていた。

「オルランドさんなら信用がありますから、商業ギルドでお貸しできますよ」

 最初に沈黙を破ったのは、ガブリエラだった。

 まだうろたえているトビアスに向かい、朱の唇だけがようえんに笑う。

 トビアスの名前ではなく、姓のオルランド呼びにしたのは、わざとだろう。

「今後のお仕事もありますから、毎月の分割でお貸ししましょう。新しい女性とお住みになるのであれば、『清算』はしっかりなさらないと、嫌われますわよ」

「……すみません、お願いします……」

 蚊の鳴くような声が聞こえた。


 ・・・・・・・


 婚約破棄の関連と借金の書類を書き終えると、トビアスは逃げるように部屋から出ていった。

 受付カウンターの隣にある会議室は、かなり声が通る場所である。

 先ほどのトビアスの話は、今夜には誰かの酒のさかなになるだろう。

 ダリヤは痛み続ける頭を押さえつつ、ようやく立ち上がった。

 そして、その場に残った三人に礼を言い、部屋を出ようとする。

「あの、ダリヤさん。こんなことを聞くのは失礼かもしれないですけど……」

 書類を束ねる手を止め、芥子からし色の髪の男が、小声で尋ねてきた。

「いえ、イヴァーノさん、どうぞご遠慮なく」

「トビアスさんて、前からあんなバ、いや、あんな人、でした?」

 『あんな馬鹿』と言いかけたのが、完全なる以心伝心で理解できた。

 ダリヤは、つい遠い目をしてしまう。

「私も今日、初めて知りました……」

「ええと、ダリヤさんは、大丈夫ですか?」

「なんともないと言えば嘘になりますけど……どうしようもないですし、もういいかなと。これから魔導具作りを自由にしていけると思えば、それで乗りこえられそうです」

 考えつつ言ったが、それが本音だった。

「ダリヤ嬢、お疲れ様でした」

 次に声をかけてきたのはドミニクだった。

「いえ、こちらこそありがとうございました。ドミニクさん」

「残念なことではありますが、気を落とされませんよう」

「ええ、大丈夫です」

「あなたのお父さんにはとてもお世話になりましたからね。私の方が先に逝く予定だったのに、先を越されてしまって、恩を返しきれていません。困ったことがあったらいつでも相談してください。公証人の依頼でなくてもね」

「はい、ありがとうございます」

「ダリヤさん、本当に困ったときは、自分一人で抱え込んではいけませんよ。お友達も、仕事仲間もいるのですから、必ず誰かに相談してください。もちろん、私も含めてですよ」

「はい……」

 ドミニクの低く優しい声に、つい父を思い出す。彼の心遣いが今は本当にありがたく思えた。


「これで手続きは終わったけれど、ダリヤさんはこれからどうするの?」

「一度新居に行って、家具を家に運んでもらいます」

「荷ほどきを手伝ってくれる人はいるの? 必要なら人を呼ぶわよ」

「いえ。今朝、出てきたところなのでそのまま戻るだけですから、簡単に終わります」

 ダリヤの言葉に軽くうなずくと、ガブリエラは大きくドアを開ききった。

 こちらをうかがっていた職員達が一斉に視線をそらしたのが、少しだけ笑える。

 ガブリエラはゆっくりと振り返ると、ダリヤに向かって優雅に微笑ほほえんだ。

「ああ、一つだけ言わせて。よき婚約破棄を、おめでとう」

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