婚約破棄の後始末 (2)


 ・・・・・・・


 イルマの家で食後のコーヒーまでしっかりごそうになった後、ダリヤは商業ギルドに向かった。

 商業ギルドは大通りでも目立つ黒レンガの五階建て。通りに向かって三つの大きなドアがあり、人の行き来が絶え間なく続いている。

 国外からの来訪者も多く、色鮮やかなしゅう入りのマントを肩にかけた者や、頭にきっちりと布を巻き、長い袖と裾の衣装をまとった者もいる。建物に近づくにつれ、どこからか、香辛料と香水の香りが流れてきた。

 ダリヤは入り口の護衛に軽く挨拶をしてから中に入る。

 一階は主に依頼者の相談の場となっているので、そのまま用のある二階へと上がった。


「こんにちは」

 二階にある契約関連のカウンターにいるのは、若い黒髪の女性と、少しかっぷくのいい中年男性だ。魔導具関連の契約で何度も訪れているダリヤとは、すでに顔見知りである。

「あ、ダリヤさん! ご結婚おめでとうございます!」

「やあ、新婚さんですね、おめでとうございます!!」

 二人がこちらにとびきりの笑顔を向けてくるのが、ちくりと痛い。

「……お祝いの言葉を頂いたところ恐縮ですが、オルランドさんから婚約破棄されました。なので、婚約時の契約書を出して頂きたいのですが」

 ガタガタと椅子が揺れ、受付の二人が同時に立ち上がった。

 二人組に突然の婚約破棄を報告すると、シンクロする仕組みがあるのかもしれない。

「ど、どうしてですか?」

「婚約破棄の申し込みはオルランドさんからされたので、私からは」

 さすがにここで『真実の愛』に関する説明はしたくない。もっとも、それはトビアスの名誉のためではなく、そんな相手と婚約していた自分の名誉のためかもしれないが。

「オルランドさんからということは、オルランド商会に何かあったのでしょうか?」

「私の口からはなにも。これについては、あちらにお願いします」

「すみません。オルランドさん側の都合なのにダリヤさんに伺うのはおかしいですね。わかりました」

 男性はすぐに納得してくれた。

「それで、婚約破棄に関する取り決めの履行立ち会いと、共同名義での仕事を清算するために、公証人をお願いしたいのですが」


 公証人というのは、国が定めた各種の取り決め、商売関連の契約時の見届けや確認、そして証明を行うことができる人である。前の世界だと、行政書士や弁護士をとり混ぜた感じだろうか。

 身分もコネも一切通じない試験、専門機関での五年の勉強、十人の身元保証人がいるなど、なるのがかなり難しい。

 公証人になれたとしても、一度でも不正を行うと資格はくだつの上、厳罰に処されるし、身元保証人にも責任追及としてそれなりのペナルティがある、厳しい仕事である。

 余談だが、公証人に対してうその内容で手続きを進めたり、地位や金を使って公証人を悪用したりした場合、かなり罪が重くなる。

 公証人を頼む費用はそれなりに高額だが、仕事や商売でのトラブルを避けるために、立会人と共に入れておくことが多い。ありがたいことに、商業ギルドには常駐している公証人が数人いるので、他の人とかぶらなければ、すぐ頼むことができる。


「公証人は一時間で大銀貨四枚となりますが、よろしいですか?」

「ええ。私の方で出しますので」

 大銀貨四枚は、前世の感覚として約四万円。

 後々のトラブルを防ぐためと思えば、けして高くはない。

 王国の通貨は、半貨・銅貨・銀貨・大銀貨・金貨などだ。

 大体、銅貨一枚で主食のパン一個が買える値段なので、半貨は五十円、銅貨は百円くらいの感覚でいる。おおざっぱだが、銀貨は千円、大銀貨は一万円、金貨は十万円前後ぐらいだろうか。

 もっとも、食料品や生活必需品は安いが、服や貴金属は高めなので、あくまでダリヤの感覚的なものだ。

「できれば二時からの話し合いでお願いしたいのですが。もちろんご無理でしたら、こちらで合わせます」

「わかりました。確認してきます」

 男性の方が、公証人の待機する三階へと走っていった。

「あの、ダリヤさん、お引っ越しされたばかりですよね?」

「いえ、今日から新居の予定でしたが、このまま家に、『緑の塔』の方に戻ります」

 商業ギルドに登録している住所は、前の家である。

 街外れにあり、つたに絡まれまくった古い塔なので、『緑の塔』と呼ばれている。

 今朝出てきたその場所にこのまま戻るのだから、住む場所に困ることもない。

「なんて申し上げていいのかわからないのですけれど……その、気を落とさないでください。えっと、魔導具師のお仕事の方は続けられるんですよね?」

 目の前の受付嬢が、はげます方向に話をつなげようとしてくれている。

 気がつけば、カウンターの後ろの職員達も、こちらをうかがっているのがわかった。

「はい。また塔の方で魔導具作りを頑張ります」

「あの、ダリヤさんの魔導具はとても好評なので、これからもお願いできれば、ギルドとしてうれしく思います」

「ありがとうございます。これからもどうぞよろしくお願いしますね」

 必死にフォローしてくれている受付嬢に向け、ダリヤはにっこり笑ってみた。

 うまく笑えているかどうかに自信はないが、少なくとも、婚約破棄で生きるのがつらいレベルのにはなっていないと思いたい。


「ダリヤさん、ドミニク様の予約がとれました」

 先ほど確認に行ってくれた、受付の男性が戻ってきた。

 父には『大切な交渉と大きな取引のときには、公証人は必ず入れろ』と教えられていた。

 ドミニクという公証人には、ダリヤだけでも今までに数回依頼している。父とも交流がある人なので、より安心してお願いできそうだ。

 ほっとしていると、周囲の視線がダリヤの斜め後ろにずれていく。

 振り返ると、象牙色の髪の女性が歩み寄ってくるところだった。

「こんにちは、ダリヤさん」

「いつもお世話になっています、副ギルド長」

 ダリヤは軽く会釈した。

 近づいてきたのは、商業ギルドの副ギルド長である、ガブリエラ・ジェッダだ。

 年齢的には熟年といっていいだろうが、つい視線が向いてしまうような女性だ。

 仕立てのいい濃紺のドレスに、バロックパールのロングネックレスがよく似合っている。

 父が若い頃から世話になっているギルド職員であり、ダリヤも学生の頃から知っていた。

「契約についての話し合いだそうだけれど、三階の会議室は予約が入るかもしれないから、この事務所の隣を使うといいわ」

「……ありがとうございます」

 『予約が入るかもしれない』ということは、本来、予約はないのだろう。

 この事務所の隣の会議室は、安全面を考えられた場所で、防音対策がほどこされていない。

 『ようするに全部聞かせろということですね、わかりました』の言葉は声に出さないことにする。

 だが、目の前のガブリエラは、朱色の唇をゆるりとつり上げ、さらにつけ足した。

「今日は皆、とても忙しいみたいなの。商業ギルドの立会人二人のうち、一人は私でもいいかしら?」

「……はい、よろしくお願いします」

 副ギルド長に対し、駆け出しの魔導具師の自分に拒否権などあるはずもない。

 ダリヤは迷わずお任せした。

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