婚約破棄の後始末 (1)

 ダリヤは新居となるはずだった家を出て、通りを歩き出す。

 少しばかり汗ばむ陽気の中、王都のレンガ色の街並みは多くの人々と馬車とで騒々しかった。

 この国『オルディネ』は王政で、すでに二百年以上の歴史がある。ありがたいことに平和で治世も行き届いており、法の整備もそれなりにしっかりしている。国の中でも王都の治安は特にいいと聞く。実際、若い女性が一人で街を歩けるほどだ。他国では考えられないことだそうだ。

 異世界ではあるが、二度目に生まれた場所として感謝したいところである。

 できればその幸運が、結婚運にも欲しかったところだが──少しだけ足を早め、ダリヤは大通りから一本外れた道沿いにある、青い屋根の小さな美容室へと入った。


「こんにちは。今、いい?」

「いらっしゃい、新婚さん! ついでにお昼も食べていきなさいよ」

 紅茶色の髪をした友人は、午前の客が終わったらしく、床の髪をほうきで掃いていた。

「ありがとう、イルマ。新婚さんじゃないけど、お昼は甘えさせて。あと、マルチェラさんはいる?」

「うん、台所にいるわ。片付けてから行くから、先にお昼、食べてて」

 ダリヤは慣れた足取りで美容室の奥にあるドアを通り、台所に進んだ。

「おう、ダリヤちゃんか。オレンジジュースでいいか? それともワインがいいか?」

 台所では、お目当てである運送ギルドのマルチェラが昼食をとっていた。

 砂色の髪を持つ、がっちりとした体型の男は、イルマの夫であり、ダリヤともそれなりに親しい。

 昼はよく家に帰って食事をしていると聞いていたので来てみたが、ちょうどよかった。

「ありがとう、マルチェラさん。オレンジジュースをお願い」

 ダリヤは、サンドイッチとオレンジジュースを受け取り、テーブルの向かいに腰掛けた。

 イルマが作るサンドイッチは、絶品である。

 今日のサンドイッチは、ライ麦パンにチーズとハム、卵と野菜の二種。ライ麦パンは大きめカット、チーズとスモークされたハム、レタスの取り合わせのバランスがとてもいい。もう一つは、卵と刻み野菜をたっぷりの新鮮なマヨネーズで合わせたものだ。

 両方のレシピをもらっているダリヤだが、なかなかこの味は再現できない。


 一つめのサンドイッチを黙々と食べ終えたとき、イルマが台所にやってきた。

 ダリヤはオレンジジュースを飲み干すと、昼食を食べ終えたマルチェラにきりだす。

「マルチェラさん、一昨日、家具を運んでもらったばかりで悪いのだけれど、前の家にもう一度運んでもらいたいの。なるべく早く」

「いいとも。今日の四時過ぎなら何人かあくよ。トビアスの用意した家具とかぶったか?」

「新居と寸法が合わなかったとか?」

 イルマとマルチェラから同時に聞かれ、つい苦笑してしまった。

「婚約破棄されました」

「は?」

「え?」

 またも二人同時に聞かれたので、ダリヤは今できる全力の笑顔で言ってみる。

「トビアス・オルランドさんは、『真実の愛』を見つけたのですって」

「………」

「………」

 二人の顔がそろって作り物のお面のようになった。

 お面といえば、こちらの世界ではあまりお面を見かけたことがない。王都には冬祭があるから、お店で子供向けにあってもいいのに。

 そういえば、王都の冬祭は恋人同士で行く、あるいは恋人を探すお祭りとして有名だが、トビアスとは一度も行ったことがなかった。自分から行こうと誘ったこともなかったのだけれど──ダリヤがそんなことを現実逃避気味につらつらと考えていると、目の前の二人が噴火した。

「あいつ馬鹿か!? 今日から新居だろ?」

「二年も婚約してて今さら!? 何考えてんのよ!」

「『真実の愛』ってなんだよ、単純に浮気だろ!」

「ホントに最低っ!」

 二人が怒ってくれるのがうれしいのは、自分の根性が曲がっているからではないと思いたい。


 ここ二年、この二人と、自分とトビアスの四人で食事をしたり、飲んだりしたことが何度かあった。四人で友人とまではいかなくても、それなりの付き合いはしている。

 マルチェラがオルランド商会の荷物を運んだときに、トビアスと二人で飲んだという話を聞いたこともある。そういった関係にヒビを入れてしまうのが、なんとも残念に思えた。

「二人とも、怒ってくれてありがとう。でも、もういいの。元々、父同士が決めた婚約だったし、その父も亡くなっているから」

 言いながら、突然、自分で納得した。

 トビアスは結婚によって、ダリヤの父というベテラン魔導具師の後ろ盾が欲しかったのだろう。

 ダリヤも魔導具師ではあるが、名誉男爵の位もなければ、制作技術はまだまだ父におよばない。

 彼にとってのメリットは、父が生きていたときよりはるかに少ないのだ。

 好きな女性ができたら、比重が一気にそちらに傾くのは当然かもしれない。

「ダリヤ、婚姻届はまだ出してないわよね?」

「うん。明日の予定だったから、まだ書いても出してもいないわ」

「運がいいと言うべきよ。ええ、そうよ、そんな男と結婚しなくてよかったわ」

 イルマは、ぶんぶんと音がしそうなほどうなずいている。

 トビアスからの婚約破棄に対し、もっと早く言ってほしいとは思ったが、確かに、婚姻届を出す前でまだましだった。

「……ダリヤちゃんを泣かせやがって……運び賃、色つけて全部あいつに回してやる……もう二度とあいつと飲まねえ……」

 泣いてはいないと言いかけたが、マルチェラの声が段階的に低く怖いものになっていたのでやめておいた。

「ねえダリヤ……無理しないでいいのよ。泣きたかったら泣いて。それとも一緒に飲む? 午後、店閉めるわよ」

「おう、鍵さえ預かればこっちで家具を運んでおくから、今日はここにいていいぞ! 新居でまたトビアスと顔会わせるのもあれだろ」

 イルマの赤茶の目と、マルチェラのとび色の目が、そろって心配そうにこちらを見ている。

 そっくりな動きをするこの夫婦が、ちょっとだけうらやましくなった。

「大丈夫。早く片付けてしまいたいから、今日のうちに商業ギルドに行って全部終わらせてくる」

「できることがあったら言ってね」

「いつでも来てくれていいんだからな」

「本当にありがとう、二人とも」

 礼を言ってから食べた卵サンドは、いつもより少しだけ塩味が効いている気がした。

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