【書籍試し読み増量版】魔導具師ダリヤはうつむかない ~今日から自由な職人ライフ~ 1/甘岸久弥
甘岸久弥/MFブックス
うつむかないと決めた日
「すまない、ダリヤ。婚約を破棄させてほしい」
新居に着いた一日目の一時間後、目の前の婚約者はそう言った。
突然の婚約破棄というのは、乙女ゲームなどで学園の卒業式に王子が悪役令嬢にやるものではなかったのか。この居間には二人きりで他に誰もいないし、婚約者の後ろに令嬢もいないが──そんなことを現実逃避気味に考えつつ、ダリヤは尋ねた。
「理由を教えてほしいのだけれど?」
婚約者であるトビアスは、見慣れたアーモンド色の目をうるませて言った。
「俺は……真実の愛を見つけたんだ」
吹き出さずになんとかこらえたダリヤを、誰かほめてほしい。
魔法があり、魔物がいて、騎士も魔導師もいるこの世界。
それがファンタジーだと思えるダリヤは、転生者である。
前世は日本の一般家庭に生まれ、高校、大学と進み、とある家電メーカーに就職した。製造部門を希望していたが、二年目でクレーム処理部門に回され、神経をすり減らす激務の日々。
最後の記憶は日付をまたいだ残業中のひどい胸の痛みだったから、死因は心筋梗塞あたりだろう。
次に目が覚めたときには、物心がついた子供としてこの世界にいた。
こちらでの名前は、ダリヤ・ロセッティ。
ダリヤという花の名に似合わず、よく言えば落ち着いた、悪く言えば地味な外見である。
前世で読んでいた転生ものの物語とは違い、高位貴族の生まれではなく職人の子供だった。
ただし、作っているのはファンタジーならではの魔導具だ。
父、カルロ・ロセッティは、有能な魔導具師だった。その腕を認められ、一代限りの名誉男爵の地位を国から与えられた。
ダリヤも幼い頃から魔導具に触れ、迷うことなく、父と同じ魔導具師を目指した。
その父、カルロには、商人の親友がいた。
十九歳で魔導具師となったときに決められた婚約者は、親友の次男である、目の前のトビアス・オルランド。彼も魔導具師であり、ダリヤの父に師事していた。
オルランド商会の次男で、魔導具開発と販売の責任者という地位があり、それなりに顔もよく、学歴もある。庶民からすれば優良物件と言える青年だ。
ダリヤが二十歳、トビアスが二十二歳での婚姻を予定していたが、トビアスの父が急死し、喪があけて結婚というときに、今度はダリヤの父が亡くなった。
ちなみに、この世界でも早すぎる二人の父の死は、何度も止めたのに深酒を繰り返したせいだと、ダリヤは少し思っている。
婚約して二年。仕事や手続きがようやく落ち着いて、今日から同居、明日は婚姻届を出すというときに、先ほどの婚約破棄である。
居間のテーブルに向かい合わせで座り、両者とも黙り込んだままだ。
ダリヤはうつむき、一度だけため息をついた。
現実感がない。婚約破棄なのだから、泣くとか怒るとかしてもいいはずなのだが、ただ果てしない疲労感だけがある。
が、ずっとこのままでもいられない。とりあえずこれからのことを確認しなくては。
「お相手は?」
「……エミリヤ。エミリヤ・タリーニだ」
トビアスは隠さずに名前を出した。
エミリヤ──ダリヤは名前から記憶をたどる。
オルランド商会に数ヶ月前に入り、受付嬢をしている少女だ。
蜂蜜色の髪と茶色の目をした、小柄でふわふわした感じの、かわいらしい女の子。
背が高いだけで地味なダリヤとは、正反対のタイプに思える。
トビアスの好みが、ああいった小動物系女子だということに、正直驚いた。
「俺は彼女と結婚するつもりだ」
「そう……」
聞いてもいないのに宣言するトビアスに、頭痛がする。
「婚約破棄の手続きをしなくてはいけないわね」
「それは、俺と君だけの話で済むことだろう?」
話だけで済むわけがないだろうという言葉を、ダリヤはとりあえず飲み込んだ。
婚約してからは、商業ギルドで共同登録して仕事をしている。結婚のため、二人で費用を折半して新居も建てた。こういった契約の解消と名義の変更をしなければいけない。
「婚約証明の届けを、あなたの父と私の父とで、商業ギルドに出したでしょう。あの書類に婚約破棄をするときの取り決めがあるから。ギルドに共同登録している契約も名前を別々にしなければいけないし。あなたが結婚するなら、円満な婚約破棄にしておかないと」
「婚約証明の届け……ああ、そうだった」
「午後、商業ギルドで確認しましょう。二時からでいい?」
「ああ」
もう出ていってもいいのに、トビアスは立ち上がりもせず、額の右を指でかいていた。
言いづらいことがあるときの彼の癖だ。
「他に何か?」
「その……彼女が、この家に住みたいと言っている」
この新居は、主にトビアスが考えて決めたものだ。
ダリヤが意見を出したのは、二人で使う予定だった作業場くらい。だから思い入れは少ない。
それでも、婚約破棄されたその日に、次の相手がこの家に住みたがっていると聞けば、胸を重くするものはあった。
「……清算後に、共同名義をあなたのものに変えましょう。あと、私の荷物は早めに持って帰るから」
「すまない」
そう言うと、後は何のフォローもなくトビアスは出ていった。
ダリヤは椅子に座ったまま、しばらくうつむいていた。
前世も今世も、猫背気味である。前世では結婚はおろか、恋愛もしていない。
今世でも十九歳まで縁はなく、ようやく春かと思えばこれである。
父からは『何かあったら、トビアスに守ってもらえ』、そう言われていた。きっとこんなことになるとは思ってもみなかったに違いない。
明日、役所に婚姻届を出しに行く予定だったので、確かに結婚はしていない。
しかし、婚約期間は二年。周囲はほとんどこの婚約を知っている。同情か興味本位の
それに今まではトビアスの実家である、オルランド商会経由で魔導具素材を仕入れていたのだ。
婚約者でなくなれば、今後は断られる可能性もある。取引を続けるにしても、ひどく気まずいことは確かだろう。
考えれば考えるほど、頭痛がひどくなる。
ふと、トビアスと婚約が決まった日、挨拶の後に言われた言葉を思い出した。
『君は、ずいぶん背が高いんだな』
女性としては背が高めの自分と、男性としてはやや低めのトビアスの身長差は三センチほど。靴の
目立ちすぎると言われた地毛の赤毛は暗い茶に染め、いつも頭の後ろでまとめるようになった。
派手な装いは好まないという彼に合わせ、銀のフチの眼鏡は、黒ブチの眼鏡に、元から地味な洋服はさらに地味に、紺や濃灰ばかりになった。
この二年、そうして、トビアスが望むような良い妻になろうと、仕事の雑用も、気遣いもしたつもりだった。だが、彼にとってダリヤという存在に、それほどの重みはなかったらしい。
さらに思い出した。前世の仕事。
クレーム対応でお客様に謝ってはうつむき、対応が遅いと上司に怒鳴られてはうつむき、連絡する暇もなく友人と疎遠になり、落ち込んではうつむいていた。
あちらの世界の最期にいたっては、うつむいて突っ伏し、覚えているのはオフィスデスクの模様だけ。
「……やめよう」
ダリヤは、日差しの入る窓に向かって顔を上げる。
前世は、人に合わせて無理をし続け、自分を壊した。
今世は、相手の理想に合わせようとし、結果がこれである。
二度目の人生だというのに、自分は何をやっていたのだろう。
もう、うつむくのはやめる。
これからは、嫌なことは嫌と、好きなことは好きと言おう。
幸い、手には大好きな魔導具師という職があり、一人で生きていくこともできる。無理に誰かと一緒になる必要もない。
頑張って仕事をし、行きたいところに行き、食べたいものを食べ、飲みたいものを飲もう。
自分でできる限り、生きたいように生きよう。
ダリヤは勢いをつけて立ち上がる。
窓から見える春の空は、目にしみるほど青かった。
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