五話 ド・メディシス家の人々と、ファルマの能力 (5)


 ◆


 そんな日々が続いたある日、朝食の席に妹のブランシュがいなかった。家族が別々に食事をするということは、この家ではありえない。ブリュノが食前の祈りの言葉を唱えた後、事情を話した。

「ブランシュがすいとうになった。三週間近づくな、悪疫がうつる」

 水痘、一般的にはみずぼうそうとして知られている。

 水痘は、ヘルペスウイルス3型に感染して起こる流行性の感染症である。発症するのは乳幼児や子供に多く、発熱とともに全身に水疱ができ、水疱がかさぶたになって自然に治る。

 ブリュノは今日からブランシュを三週間隔離する、と宣言した。

 理由は「悪疫がうつるから」というものだ。看病は少数の使用人に任せ、家族であっても面会禁止と伝えられた。

「まあ、私も会ってはいけないの? 痛いでしょうに、かわいそうよ」

 ベアトリスが抗議する。幼いブランシュが母親にも会えないというのは、酷である。

「だめなものはだめだ、患者が増えるだけだ」

 この家では、ブリュノがルールである。ファルマは尋ねてみた。

「何か薬を与えたり、軟膏などを塗りましたか?」

「水痘は放っておいて安静にしておけば治る」

 ブリュノは「大したことはない」と取り合わない。水痘は確かに、予防接種をしていなければ小児期に必ずといってもいいほどかかるウイルス性の疾患だ。だが稀に、重症化して死ぬ場合もある。

(確かにそうだけど)

 生後まもなくに感染すれば、母親からもらった免疫が機能しているので重症化する心配もあまりないのだが、ブランシュは四歳なので、母親からもらった免疫が切れている。

「私は水痘になったことがありますか?」

 ファルマ自身の病歴を、ブリュノに尋ねてみる。

「うむ、お前も六歳のときに水痘をやったではないか、もうすっかり忘れたのか?」

(なら、俺は看病しても大丈夫だ)

「ブランシュに近づくなよ。水痘がうつるぞ」

 迷信に支配されたこの世界にはまだ存在しない『ウイルスへの感染』という概念を、ブリュノは経験的に理解しているのかもしれない、とファルマは感じた。

 さらにブリュノが言うことには、

「水痘は一度かかっていても再発することがある。医学書には書いていないがな」

(帯状疱疹のことを言っているのか)

 水痘のウイルスは、治癒した後も体の中に残る。

 そして免疫力が低下したり、抗体がなくなった場合などに、神経節に沿って再び水疱を作ることがある。それを帯状疱疹といって、これは人生で何度でもかかりうる。もしくは、これは地球上では最近分かってきたことだが、免疫が切れた頃に再感染ということもある。ブリュノの言っていることは、半分正しかった。ファルマは六歳のときに水痘をやったというので、まだ免疫は切れていないはずだ。

 とはいえファルマは、ブリュノが水痘と帯状疱疹が同じウイルスが起こすものだと見分けがついていることに感心した。医学書には書いていないというので直感的なものなのだろうが。

 ブリュノの観察眼は冴えていた。


 ブリュノが王侯貴族の診察へと出かけてゆくと、ファルマはこっそりとブランシュの部屋に忍び込んだ。

「ブランシュ」

 ブランシュは、一人でベッドの中で寝込んでいた。熱が上がってきて辛い思いをしているようだ。

「兄上……きてくれたの。うれしい」

 ブランシュは何とも言えない、ほっとしたような緩みきった表情でファルマを見る。

 使用人も水痘がうつるのを恐れてか、あるいはブリュノの命令なのか、最小限の回数しか世話に来ていないようだった。特に、水痘にかかりやすいとされる年齢で、なおかつ平民であるロッテは、ブランシュの部屋への出入りを厳しく禁止されていた。

 診眼でブランシュを診ると、ブリュノの見立ては正しかったようだ。

 確かに、水痘だ。

「調子はどう?」

「つらいよう……ぶつぶつがね、いっぱいできてきてかゆいの」

 ブランシュは半泣きになる。顔や首には、赤い発疹ができ始めていた。放っておけば、発疹は増えてゆくだろう。水痘は、発症四十八時間以内に抗ヘルペスウイルス薬、アシクロビルかバラシクロビルの服薬を開始すれば症状が軽くて済む。

「ちょっと待っててな、薬を取ってくるから」

 ファルマは急いで自室に戻り、ガラス皿と薬包紙を準備して物質合成に取りかかる。

「アシクロビルにするか」

 ファルマがもし地球でブランシュに薬の処方をするなら、アシクロビルではなくバラシクロビルを選ぶ。どちらも効果は殆ど同じなのだが、アシクロビルは、小児では一日四回飲まなければならない。それに対して、バラシクロビルは少ない回数の服用で済む。

 だが、こちらの世界では事情が違う。アシクロビルのほうが化学構造が単純なのだ。これはファルマの中では重要だった。

 物質合成はファルマの脳内イメージに完全に依存している。だから間違いのないよう、よりリスクの少ない、つまり単純な化合物を選択したい。

 アシクロビルは、ヘルペスウイルスのDNA合成を阻害することにより増殖を抑える薬剤だ。その薬自体は比較的簡単な構造の化合物だった。

「プリン骨格に、非環状側の側鎖の……」

 物質名、そして構造を脳裏に正確に思い浮かべる。出来上がったイメージを、そっくりそのまま左手に伝え、写し取ってゆく感覚だ。構造に間違いがあってはならない。別の薬剤になってしまわないよう、細心の注意を払って合成する。

 ファルマの左手の、薬神の聖紋とロッテやエレンに呼ばれた痣が、青白く発光した。

「〝2-アミノ-9-(2-ヒドロキシエトキシメチル)-3H-プリン-6-オン〟」

 物質名を唱えてみる。そして、次に一般名を唱える。

(〝アシクロビルを合成〟)

 イメージが伝わったのだろう、彼の左手の掌が青白く発光し、白い粉末がファルマの手の中から零れ落ち始めた。

 物質創造により薬包紙の上に薬を造り出す。

「ちゃんとできてるのかな」

 アシクロビルができているかどうか、試しに粉薬の一部を取り分けて水に溶かしてみる。

「ん、溶けないな。ちゃんとできてるんじゃないかな」

 決め手には欠けるものの、アシクロビルは水に溶けないという性質を持っているので、物性を部分的に確認できた。さらに一部を取って口に含んでみると、苦く感じる。ファルマの記憶にある苦みだ。

「うん、苦い。この味だ」

 必要な量を一包ずつ、薬包紙で包もうとして、ファルマはその手を止めた。

「ああ、ブランシュは子供だから、苦くて飲めないかな」

 甘くしてあげないとな、とファルマはもうひと手間かける。

 原薬としてのアシクロビルには苦みがある。だから、ドライシロップという顆粒状のざいけいにしてあげるとブランシュのような子供が飲みやすい。ファルマはぶどうの香りをつけた甘味剤でアシクロビルをコーティングした。できた粉薬をぺろりと舐めて味見をする。

「甘いな。文句なしにぶどう味だ」

 天秤で粉薬をはかり、必要な量を一包ずつ薬包紙で包む。ファルマ少年への教材と思われる天秤式のはかりが自室に置いてあったのでそれを使わせてもらった。


 ファルマはドライシロップにしたアシクロビルの顆粒と水を持って、食事を終えたブランシュの部屋に戻った。

「これを飲んでみてくれ、薬だ」

「お薬? にがいでしょう?」

 苦くない薬は飲んだことがないようだ。薬は苦いものという先入観があるらしい。

「ぶどう味だよ、美味しいよ」

「本当? うそじゃない?」

 半信半疑で薬包紙を解き薬を飲んだブランシュは、舌の上で薬を転がして、段々と笑顔になってきた。そして嬉しそうに「ぶどう!」と言って喜んで薬を飲み干した。しかし、飲んだ後から不思議に思ったようだ。

「そういえば、この病気のお薬はないって、さっき父上がいってたよ」

 ブリュノはブランシュに説明をしていたらしい。

「あ、新しい薬ができたんだよ」

「どうしてお薬の大学のえらい先生の父上が知らないのに、兄上がそれを知っているの?」

 ただでさえつぶらな瞳をさらに丸くして、ブランシュが尋ねる。ここで適当なことを言ってしまえば、変に疑われるだろう。

「父上の持っていない、新しい本を読んだから」

「わあ、そうなんだ。兄上ってすごい。父上にもその本のこと教えてあげないとね」

 ブランシュはにこっと微笑んだ。

「あ、それは言わなくていいから。俺とブランシュの秘密だ」

「え? うん! どうして? ……分かった、ないしょね!」

 どうしてなのかよく分からない、でもいいやという顔で、それでもブランシュは眉を寄せて真面目な顔をして頷いた。そして彼女は無意識に、水疱ができ始めた皮膚表面を掻こうとした。

「ぷつぷつは掻いたらだめだよ、ブランシュ」

 水泡を掻くことによって、爪から細菌感染が起こる可能性があり、よろしくない。

「やだ、がまんできない。どうしてだめなの? ちょっとだけならいいでしょう?」

 ブランシュは不満そうに口をとがらせた。

「だーめ。ばいきんがほかのところに広がるからね」

「ばいきんってなに?」

「目に見えない、小さな小さな悪霊かな」

 ブランシュに説明できる自信がなかったので、そういうことにしておいた。ブランシュには分かりやすいだろう。

「こわーい! こわーい!」

「そうだ、今日は俺がブランシュと一緒にいるよ、面白いお話を聞かせてあげよう」

「わあ! 楽しみ!」

 ブランシュが心細くないよう、辛さを紛らわせることができるように。

 ファルマはベッドサイドに椅子を引き寄せる。

「でも、私と一緒にいたら兄上にも悪霊が入ってくるかもしれないよ」

 ブランシュはファルマに水痘をうつしてしまうことを心配して、布団をすっぽりかぶる。病気になるのは悪霊の仕業、と信じている世界だ。

「いいよ。二人で悪霊をやっつけよう」

「うん!」

 ファルマはその日、彼女の看病に明け暮れた。彼女の知らないおとぎ話をしたり、手遊びをしたり、絵本を読んでやったり、カードゲームをしたり。決められた時間に薬を飲ませるのも忘れなかった。エレンの家庭教師の授業時間以外はつきっきりでブランシュの傍にいて、ゆっくりとした時間を、二人で過ごす。

 彼女のおやつに、りんごを剥いて食べさせていたときだった。

「兄上、前とかわった。ぜったいに前とちがう」

 ブランシュが、疑わしげにじーっとファルマを見つめてくる。





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