四話 エレオノールの神術講座 (3)

「では、私の杖を貸してあげるからここから河の下流に向けて、〝水の槍〟を放ってみて」

 エレンが折り畳み式の杖をカチンカチンと軽快な音を立て組み立てると、彼女の背丈ほどの高さになった。銅色の杖には、サファイア色の美しい宝石がついている。それを軽く握り、鋭い言葉を唱えると、一直線に突き込むように空に向けて振った。

「〝水の槍〟」

 唱えた言葉は、ファルマにはフランス語に似た言語のように聞こえた。

 杖から放たれた激流は、たゆたう穏やかな大河の水表を弾き飛ばしながら数百メートル先まで一直線に迸り、やがて緩い放物線を描き河に落ち消えた。水飛沫が霧となって風上から流れてくる。

「すごい! 本当に槍みたいだ!」

 ファルマは歓声を上げた。

「その反応だと、本当に忘れているのね。そんなに難しい神技ではないわ」

 エレンは困ったことになったという顔をした。

「あなたもやるの」

 私の杖は、高位神術使いのものだから扱いづらいし、場合によってはうんともすんとも言わないと思うけれど、ファルマ君この杖でできるかしら、などと言いながら、ファルマに杖を差し出す。

 ちなみに神技は術を想像し『発動詠唱』を唱えることで発動するのだそうだ。

「思いっきり振ったほうがいい?」

「そうね、思い切りいくといいわ。待って、舟は浮かんでないわね」

 この時間帯は河で漁をしてはいけないことになっているのに、よく違反船が浮かんでるのよ、とエレンは遠方を確認する。

「いいわ、思い切りやって。詠唱は〝水の槍〟よ」

 ファルマは杖に意識を通じるようにして目を瞑ると、そこへ思い切り水のイメージを放った。発動詠唱の言葉はさっぱり忘れていた。

 すると、杖は空中に固定されたように動かなくなり、ファルマの全身から青白い蛍光が立ち上って、杖の先には大河を覆い尽くすほどの巨大な水柱が直線状に上がった。河は大容量の水を受け止めきれずまたたく間に増水し、渦巻く水流は堤防の高さへと迫る。

 天は曇り、嵐のように暴風が吹き荒れた。

「きゃあああっ──!?」

 ファルマの神技によって発生した風圧と衝撃波で、河原に吹き飛ばされてしまったエレンは、倒れ伏したまま刮目した。水流の威力がでかすぎる、などという生易しいものではないのだ。これでは堤防を破壊し、のみならず大洪水を起こして下流の街を沈めてしまう、そんな状態だ。

「うわあっ!?」

 驚いたファルマが杖を捨てると、ようやく激流はおさまった。

「ファルマ君、あなた……どう、しちゃったの?」

 眼鏡が斜めにずれたのもそのままに、エレンはふらふらと立ち上がる。

「ごめん、加減ができなくて。怪我してない?」

 一方のファルマは、神技の一般的な威力が異世界基準でどれほどのものなのか知らず、コントロールが甘かったことを指摘されたのだと考えた。

(そういえば発動詠唱ってやつを忘れてたな。だからコントロールできなかったのか? 自主トレするときは海でやらないと。橋や沿岸の家に当たっても危ないし……気をつけよう)

 などと彼が真面目に反省と分析をしていると、

「ファルマ君が、ぶっ壊れちゃった……発動詠唱もしてなかったのに、何でそうなっちゃったの?」

 発動詠唱をしないと神技は出せないのに、とエレンは怯えたように小声で呟く。

「え? ぶっ壊れた? 俺が?」

 ひどい言われようだが、しばらくして、どうやらやりすぎたらしい、というのはフリーズしたエレンの反応で察知した。さすがにまずいと思ったのか、ファルマはとりあえず場を取り繕って、

「エレンの杖ってすごいな!! さすが高位神術使いの杖だな、びっくりしたよ」

 彼は白々しい言い訳を繰り出しながら、愛想笑いを浮かべるしかなかった。何とかごまかそうとしたファルマだったが、エレンはその手には乗らなかった。

「杖がどうとかもはや関係ないわ! あなた、神力どうなってるの? それに、体は大丈夫なの!?」

 エレンはバッグを取ってくると、中から金属製の棍棒状の道具を取り出す。

「私がついていながらっ……両手を出して! ファルマ君。あなた一生分の神力を使ってしまったかもしれないわ! あんなの無理よ! まだ記憶が戻ってないって言ってたのに……私の責任だわ!」

「この棒、何?」

「いいから。説明は後よ、握って!」

「はい」

 ファルマの手を包み込むように、エレンは両手でそれをファルマに握らせる。温度計のような表示のついている簡易神力計で、握るだけで能力と神力の量に対応する色が出る。人が一度に使える神力は決まっていて、神力計を見ながら訓練をする。大神技を繰り出したファルマが、力を使い果たして倒れてしまうかもしれない、とエレンは説明した。心配しているのだろう、涙目になっていた。棒は全体が白く柔らかな光を放ち始めた。中央の窪みについている水銀温度計に似たゲージが凄まじい勢いで上昇し、一瞬で振り切れた。

「無色の、限界突破……ですって? ひいいっ……」

 エレンは驚いて後ずさったものだから、眼鏡が地に落ちてそれを踏んでしまった。高価なレンズが悲しく砕け散ったが、エレンは気にとめなかった。ファルマは一応指摘しておく。

「あの、眼鏡割れたよ」

「それどころじゃないわ!」

 ファルマはレンズのなくなった眼鏡のフレームを拾ってガラスをきれいに取り除いた。フレームが歪んだら大変だ。それで、あらためて尋ねる。

「限界突破って、どういうこと?」

 要領を得ないファルマに、エレンは思い悩んでいるようだった。彼女はファルマからかなりの距離を取って下がっていた。警戒されていると分かり、ファルマは申し訳なく思う。

「こっちが聞きたいぐらいよ……ちなみに神力計を振り切った神術使いは過去にはいないわ、一人としてね。皇帝もこんなに出したことないわ」

 エレンは恐る恐る近づいてきてファルマの白いシャツを腕までまくる。

「ちょっと見せてね」

 エレンは顎に手をやって、顔を近づけ、腕に走る雷のあとをしげしげと見つめていた。ファルマは長袖のチュニックで傷を隠していたのだが、服ごしに明らかに発光していたのでバレたのだ。エレンは見れば見るほど気になるようだ。

「この痣、どうみても薬神の聖紋だし」

「それさ、ロッテにも言われたんだけど、気のせいだよ。誰でもこうなるんだって。ただの火傷だよ」

 薬神の聖紋がどんなものかは、ファルマは書物で調べて知った。確かにデザインが酷似していたが、ファルマとしては、否定したい。

「雷の痕でできるでんもんっていう火傷だよ」

 電流が両肩から表面を這って、沿面放電をして腕に抜けたんだろう、とファルマは説明する。

 本当だって、ネットで調べてみてよ、と言いたいが異世界にはネットがない。

「そんな作り話はいいわ。だいたい、落雷に遭って生きていられるわけがないし」

「落雷で運悪く死ぬのって、十パーセントぐらいだよ」

 地球のデータではあるが、反論材料を探してみる。

「それどこ調べなのよ、そんなデータ聞いたことないわ」

(分が悪いな。こっちが出せるのは全部地球のデータだからな。異世界の雷に直撃するとどうなるんだ?)

「絶対死ぬに決まってるわ。それに火傷は青白く光ったりしないの、当たり前だけど」

 エレンがそう言い張るので、ファルマも言い返せなくなる。

 落雷を受けると、電撃麻痺が起こり一時的に呼吸停止や心停止が起こったり意識が消失する。だがそれは殆どの場合一時的なことで、呼吸は自然に再開するし、死亡するのは不運だ。後遺症の有無はあるかもしれないが、絶対死ぬ、ということはない。

(異世界の雷の威力は強力なのかな?)

「雷に当たって生還した人がいないから分からないけど、それを境にファルマ君の神脈に異常が起こったのかもしれないわ。神術を使うとき、体の奥が熱くなる感じ、ある? 息切れや動悸とかしない?」

「そんな感じはなくて、別世界から力が流れ込んできている感じかな。だから疲れたりはしないかな」

「だと思った……まるで別世界の術だわ。普通はあんな神力を放ったら倒れるか死ぬもの、なのにまだ神力計が振り切れるほど力が残ってるだなんて、ありえないわよ」

 どういうことなのかしら、とエレンは悩ましそうに腕組みをした。

 授業はすっかり中断してしまっていた。それどころではなくなっていた。

「ファルマ君。今後は絶対に人前で神力計を握ってはだめよ。お師匠様にも見せてはだめ。神術を全力で使ってもだめよ、それから、一人で訓練しちゃだめ」

 だめだめ尽くしだが、ファルマのためを思っての忠告なのだろう。ファルマの潜在能力は危険すぎ、ちょっとした手違いで帝都が滅んでしまいかねない。張り切って自己鍛錬などやられては皆が困る。

「ちょっと待ってね、もう一回調べるから」

 眼鏡を割ってしまったので、舐めるほどの至近距離で書物を調べ上げ、エレンは属性の定義を確認し始めた。ファルマは彼女を落ち着かない心境で見守る。

「やっぱりそうね」

 エレンはようやく調べがついた。ファルマはドキドキと心拍数が上がる。

「あなたは無属性の、正と負の属性みたいだわ。落雷を期に属性が変わっちゃったみたい、前は水属性の正だったのに……」

 属性は神力計の色で簡易的に分かるらしい。白い光を放ったので、無属性だとのこと。

「無属性って、珍しいんだっけ」

 ここ数百年、無属性の使い手は出ていないという話を先ほど聞いたばかりである。

「珍しいなんてもんじゃないわ。あなたにはどんな特殊能力があるのかしら?」

「でも、水が出せるよ。水属性なんじゃないの?」

 物質創造ができるということを知られると、話が面倒になりそうだ。ファルマとしては隠しておきたかった。

「水が、ではなく水も、出せるんだったりして。未知の能力なうえに、皇帝よりはるかに強い神力を持っているっていう、言っても誰も信じないようなことになってしまって」

 あのファルマ君がこんなことに、とエレンは虚ろな笑顔で回想に耽っている。一種の現実逃避だった。エレンの魂が抜けてどこかへ行ってしまいそうだったので、

「隠しておいたほうがいいっていうの、よく分かったよ」

 隠しておいて後々問題にならないことであれば、絶対に隠し通すべきだとファルマは思った。

「あなたってもしかして帝位に興味ある?」

「帝位? 皇帝の地位ってこと?」

「そう」

「俺が? 皇帝? この国の?」

 冗談だろう、と聞こうとしたが、エレンは冗談ではないという顔をしていた。

「そ!」

「まさか。ド・メディシス家は薬師の家系なんだろ?」

 何でいきなり帝位の話になるのだろう、とファルマは眼鏡を持ったまま戸惑い、眼鏡のツルを伸ばしたり畳んだりする。

「それは関係ないわ」

 サン・フルーヴ帝国皇帝の、帝位継承制度。

 それは家格や守護神を考慮され、神力の強く能力に秀でた大貴族の嫡子が、神殿の合議によって選定されるものだという。万一ファルマが皇帝の神力を凌駕してしまった場合、皇帝の資質に足るかというと、ド・メディシス家は家格からいっても十分だ。

 しかしそれでは現皇帝にとっては都合が悪いので、現皇帝に暗殺されるかもしれない、という話だった。

「まあ、あのご立派な陛下が暗殺なんてしないと思うけど、まず確実に果し合いには発展するわ」

「困るよそれ!」

 そんなの、百害あって一利なさすぎる、とファルマは御免こうむりたい。

「で、念のためもう一度聞くけど帝位に興味あるの?」

「全然。そもそも、政治とか苦手だし分からないし。俺に政治任せたらひどいことになりそう」

 根っからの理系人間である彼は、社会学、経済学、政治的なことはからきしなのだ。

 慣れないことはするものではない。責任だって負いかねる。

「なら、よかった。今日の授業はここまでにしましょ。後半、授業じゃなかったけど。おしまい」

 エレンはファルマに野心がないと知り、ほっとしたようだった。

「ありがとう。俺はこれで。これ眼鏡、忘れないで持って帰って。またレンズ入れたら使えると思うから」

 しかし、エレンは特にやり残したこともなさそうだがその場から動こうとしない。

「帰らないの? 帰ろうよ」

「眼鏡がないと私、何も見えないの。お屋敷には予備の眼鏡があるけれど」

 ベンチに座ったまま、足をぶらぶらとさせていた。

「あ、そうか。そんなに目が悪いんだっけ。家まで連れて行くよ」

「う、うん。あ、ありがとう……」


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