四話 エレオノールの神術講座 (4)
ファルマはエレンの手を引いて、薬草園から屋敷へ戻る橋を渡る。
エレンの視力がどれほどなのかは分からないが、かなり見えないようだ。
「そこ段差あるから、気をつけて」
彼より背の高い彼女の手を引き、ファルマが彼女を薬草園のある河の中州から、橋を渡って屋敷までエスコートしていく。エレンの華奢で繊細な手は、ひんやりとしていた。
冷え症の冷たさではないようだ。微かに震えている。
「手、震えてるけど大丈夫?」
「そ、そうかしら? 気のせいじゃない?」
しばしの沈黙が続き、気まずい空気が流れる。
眼鏡をしていないエレンは、伏し目がちで妙に妖艶に見えた。
「ねえ、ファルマ君、しつこいようだけど落雷を境に力が備わったのよね?」
ファルマは身構える。エレンいわく、昨日は薬神の影響が非常に強くなる星位だった、とのこと。
「さっきの神術、やっぱり人間にできることじゃないわ」
「え?」
ファルマははっきりと告げられて不安にかられ、足を止めた。
「あなたの守護神である薬神が、あなたに宿ったのかもしれない。私にはそう思えてならないの」
エレンは言葉を選んだようだが、ファルマにとっては受け入れがたいことだった。
(薬神なんて大それたものじゃなくて、ただの薬学者が宿っただけなんだけど……)
「落雷で確か脈が止まったみたいだし、人格も変わってるみたいだし、神術の属性も、記憶もないんでしょ?」
(ああ、そういうことなのか)
ファルマにもその
「前のままのファルマ君だと信じたいけれどね。全然違うもの」
その気になれば、あるいは神術の加減を間違えただけで瞬殺されてしまう相手の至近距離にいるかと思うと、手が勝手に震えてしまったのだという。
「その力、完全に制御できる自信ある? 暴走したりしない?」
「どうか分からないけど、制御できるようにするよ。自分のことで人に迷惑かけられないし」
力を授かったとしても、それをむやみに振りかざしたいとはファルマは思わない。
彼は、人を傷つけるより治すほうが得意なつもりだ。彼がずっとそうだったように。
彼は魂というものを信じてはいないが、転生したとしても人格は変わらない。
「そうだ、眼鏡を落としたときは、こうやるといいよ」
ファルマはふと思いついてエレンの手をほどくと、両手の親指と人差し指で二つ環っかを作り、眼鏡のように自分の目に当てた。
「ほら」
場の空気がほどけて、思わず笑いころげるエレン。
「ぷっ、何、それ面白い」
「この穴を、細く細く狭めていくんだよ。騙されたと思ってやってみて」
仕方なく付き合ったエレンは、顔の前で眼鏡の形を作る。
「もっともっと細く、針穴ぐらいにしていって」
「え? え、え? 待って、ええーっ!?」
言う通りにしたとき、エレンは絶叫した。そして嬉しそうに目を細めた。眼鏡をかけたかのように、遠くの景色が鮮明に見えるのだ。
「見える! 遠くまで見える! どうしてこんなことを知っているの!?」
こんなことで驚くのか、とファルマは肩をすぼめる。
それでも、エレンの喜ぶ顔を見て、彼も嬉しくなってくる。
「視界は狭いけど、とてもよく見える!」
眼鏡ごっこをしながら、二人向かい合って話す光景はなかなかにシュールだった。
「あれ?」
(何だ、これ)
不思議がるエレンを眺めながら、ファルマは別のことで驚いていた。環ごしにエレンを見ると、エレンの目と左手の指先が青白く光って見えていたからだ。
「私の顔に何かついている?」
エレンは自分の頬のあたりを指で撫でた。思わず彼女の手を取る。エレンの肩はびくっと震えた。
「あっ!」
「何?」
ファルマの指の環を通してエレンを見ると、彼女の左手中指の第二関節が、青白く光って見えたのだ。環をほどくと、見えなくなる。左手で作った環を通して見たときにだけ、見える。
ファルマはエレンの指の光る部分に軽く触れてみた。
「痛い痛い! 何するの!?」
エレンは悲鳴を上げて涙目になる。
「え? そんな強くしてないけど、ごめん」
「そこ、今朝指を突いて痛いの。どうして突き指してるって分かったの? 包帯もしていないのに!」
「〝捻挫〟?」
ファルマがそう言った途端、青白い光は白い光へと色調を転じた。
「色が変わった?」
ファルマが色々試した結果、神力の通じた左手で環を作って覗いてみると、患部が青く光って見え、病名を当てると光の色が白に変わるのだった。
「というわけなんだよ、驚いたなぁ」
「それって……もしかして、薬神の『神眼』みたいじゃない。何なのそれ、人間じゃないわよ……薬神はあらゆる病を見透かしその症状に応じた薬を授けるという言い伝えがあるけど……」
エレンは一歩ずつ後ずさりをし始める。ファルマはエレンの態度を寂しく思ったが、彼女がそんな態度を取る理由も分からないではない。
そんな説明をしているうちに、エレンは恐ろしいものを見たように口をパクパクさせながら、ファルマの足元を指す。
「ちょっと待って、ないわ、ない……あなたの影が!」
彼女に正対して立つファルマの足の下に、影はなかった。
「うわあああああああ──────!?」
ファルマはこれにはさすがに絶叫してしまった。
「い、言わない。誰にも言わないから。だから……助けて────っ!」
エレンはとうとう身の危険を感じたらしく、時折つまずきながら走って逃げ去っていった。恐ろしかったのだろう、眼鏡のフレームをまたぶん投げて。
「どうすればいいんだ、これ」
ファルマは本格的に窮した。薄暗い屋敷では影が多いのでバレないだろうが、明るい屋外でファルマにだけ影がないのは相当に目立つ。一度気づかれてしまえば、もうどうやってもごまかしの利かない超常現象だ。誰にも言わないと誓ったエレンの口の堅さを信じるしかなかった。
それでもいつか、影がないことがバレて迫害にでも遭うんじゃないか、と思うとファルマは胃がきりきりする。
「きゃーっ!」
橋を渡り切ったところの段差で、ドテッと盛大に転ぶエレンの姿が遠目に見えた。
言葉を尽くして誤解を解くには、しばらくの時間がかかりそうだ。
◆
「おかえりなさいませー!」
「ただいまー」
用心のために夕方になるまで時間を潰してから屋敷に戻ったファルマは、部屋で世話を焼いてくれるロッテを左手の環を通して眺めてみた。すると、洗濯などの水仕事をしている働き者の彼女の手がぼんやりと青く光っている。手をよく見せてもらうと、無数のあかぎれを発見した。
「〝あかぎれ〟」
彼女の手を包んでいた青い光が白色に変わる。正解だったようだ。
(あかぎれはほっとくとなかなか治らないんだよな)
手を休めれば自然に治るものだが、毎日水仕事をしているのでますます荒れているのだろう。流血するほどではないが、ちくちくと痛むはずだ。ファルマの身の回りの世話をしてくれる中でできた傷だと思うと、放ってはおけなかった。
彼はすぐに保湿剤を中心としたローションの製作にとりかかった。物質合成した化合物を混合してゆく作業だ。蒸留したきれいな湯冷ましの中に水溶性の物質を溶かし、親油性の物質を別に分けておく。そして湯煎をしながら、乳化剤とともに少しずつ二つの溶液を混合してゆく。彼は頭の中でイメージできる単純な化合物しか物質創造ができないので、配合できるものは限られている。
「ヘパリノイド、グリセリンに、スクワラン、セタノール、モノステアリン酸グリセリン、後は……」
保存性をよくするために、殆ど害のない防腐剤も入れた。
幸い、薬師の家だということで、フラスコや試験管、薬瓶やビーカーのような簡単な実験器具は部屋にあったのでそれを使わせてもらっている。このローションには、ステロイドは入っていない。保湿剤を中心としたこのローションは日々のケアに使う。
次に、イソパラフィン、シクロパラフィンなどが主成分のワセリンとして知られる軟膏の基材に、あまり強くないステロイドであるプレドニゾロンを混合した軟膏を造り小さなケースに入れる。
女子の好きそうなかわいらしいリボンをローションの入った小瓶にかけ、軟膏とともに木箱に入れた。
「わあ! 何ですか、これ?」
ロッテはファルマから手渡された木箱を見るなり、ぱっと笑顔になった。
「ロッテにはお世話になっているから、プレゼント。寝る前に手に塗り込んで。ひどいところには軟膏を。しばらくすると皮膚が滑らかになるから」
「いいんですか? 嬉しい! 本当に嬉しいです!」
ロッテは目を涙で潤ませると、これ以上ないといっていいほど喜んだ。
瓶を掲げてその場で歌を歌い、小躍りしそうだった。
「母も使っていいですか? 母も手がガサガサなんです」
ロッテは小瓶を高々と掲げてくるりとターンをして、はちきれんばかりの笑顔で無邪気に喜んでいる。彼女は嬉しいときには、すぐに態度に出てしまう。隠しごとのできない性格のようだ。
「もちろん、ローションのほうは皆で使ってよ。軟膏のほうはだめだ、俺が症状を見てからね。もっと量が必要なら造るから」
翌日、ロッテはつるつるになった手を、嬉しそうにファルマに見せにきた。
「すごいですこれ! 皆が買いたいと思います!」
これまで、ハンドケアというと、高価な油や軟膏しかなかったのだという。それらの高価な薬は、薬師ギルドが販売を独占している。
「母には奥様が時々お薬をくれますが、お薬って平民には手が届かないほど高いんです。本当にありがとうございました!」
嬉しそうに挨拶をして屋根裏部屋に戻っていったロッテを眺めながら、庶民が安心して薬を買えるように、庶民のために低価格の薬を提供すると人々が喜ぶかもしれない、彼はそう思った。
彼はもともと、人々を癒すことと創薬に人生を賭けた、奉仕精神の強い薬学者だった。
今生の生でも持てる技能と知識を尽くして、今度は無理をしすぎないように気をつけながら、彼らを助けたいと考えていた。
それに、ファルマは影が薄いどころか影のない、どう考えてもただの人間ではない異端者である。化物と恐れられたり迫害されて殺されたりしないためにも、いや、最悪バレても周囲の人々に受け入れてもらえるように、彼らに必要とされる存在にならなければならない、という危機感も強く働いた。
貴族相手の家業は兄に任せ、物質創造で資金を得て、ゆくゆくは独立して薬局でも開く。
そしてこの世界の人々のために医薬の普及と奉仕をしようかな。そんな、将来の展望を考え始めたのだった。
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