三話 宮廷薬師見習い、ファルマ・ド・メディシス
威勢のよい大きなファンファーレの音が屋敷の中に鳴り響く。
「何が始まるんだ?」
「ファルマ様、お食事の時間ですよ」
薬学の書籍を読んでいた彼を呼びにきたロッテが早く早く、と一階の大広間に行くようせかす。
「お腹すいたな。ロッテも食べに行く?」
腹は減るものだ、何をしていても。
「使用人はご主人様たちの食事が終わった後です。なので、早く召し上がってください!」
「そういうことか! 分かった、すぐ行くよ」
育ち盛りのロッテも早く夕食にありつきたいのだろう。それで早くと言ってちゃっかり促すのだ。
食堂に集まってきた家族の顔を、ファルマは初めて確認する。
「起きたか。よく眠っていたから寝かせておいたのだが」
「はい、先ほど起きました。ご心配をおかけいたしました」
最初に声をかけてきたのは、金色の髭をたくわえた碧眼の男。眼光の鋭い長身痩躯の人物だ。屋敷の主人にしてファルマの父親である。
ブリュノ・ド・メディシス。
彼は代々王侯貴族を専門に診察し薬を処方する宮廷薬師で、帝国の中心部にあるサン・フルーヴ帝国薬学校の総長を務めている。水属性の神術使いだ。
この世界では特殊技能を持つ優れた貴族に、「尊爵」という爵位が与えられている。階級は尊爵、公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵となっている。つまり尊爵である彼は大貴族、というわけだ。確かに、ロッテの言うように大貴族らしい威厳がある。
「まあ、快復してよかったわ。どうなるかと思ったのよ」
そんな声をかけてきたのは銀髪碧眼の、清楚な雰囲気の貴婦人。
ベアトリス、母だ。
名門貴族の出身で風属性神術の使い手だという。
「兄上ー、もうだいじょうぶ? いたくない?」
金髪碧眼で巻き毛を腰まで伸ばし、愛嬌たっぷりにファルマを呼ぶ女児。
ブランシュ、四歳の妹だ。
幼いながらブリュノと同じ水属性神術の使い手だ。幼くしてこの美貌。将来はさぞ美しくなるに違いないと、ファルマは確信する。
ファルマが名前の件で同情を寄せる兄パッレは現在留守にしている。兄は、世界最先端の医薬大学、遠い異国のノバルート医薬大学校で薬学を学んでいるエリート。全寮制のため、年に一度か二度しか帰ってこない。
そんな家族が顔を合わせ、広い食堂の大きなテーブルに着席した。
ブリュノは机の上に用意された陶器の手洗い用水盤に、水の神術で澄んだ水を注ぐ。
妹のブランシュもいっぱしに自分の水盤に水を張り、母親の水盤も満たす。母親は貴族であるが属性が違うので、水を造るのは娘の仕事だ。
ファルマも平静を装いつつ彼の前にある水盤に水をたくわえ、手を洗った。
テーブルクロスの上には、直にパンとナイフとスプーンが置かれている。最年少者であるブランシュが神々への祈りの言葉を紡ぎ、家族が復唱して食事が始まる。
(あ、食事、意外と美味しい)
香辛料たっぷりの鶏のブルーエをはじめ、野うさぎのシチューなどが次々と給仕される。ファルマはロッテに聞いていたテーブルマナーを守り、ゆっくりと食べるように心がける。
(働きすぎてまともに食事をしたこともなかったな、俺)
一口一口美味しさを噛みしめながら、異世界の味覚に舌鼓を打つ。
彼は生前、食事の時間も惜しんで栄養補助食品やビタミン剤のようなものばかり口にしていた。
栄養とカロリーになれば何でもいい、消化されれば何でも同じという考えだったので、彼の前世の食生活は極限にまで効率化され、食事というのは生きていくために補給するだけのエネルギーに過ぎなかった。
以前ならばその時間を尊重せず、ラボに戻ったことだろう。だが、食事という行為を通して精神的なゆとりを持つことは、人間の精神の豊かさにつながる。そんな基本的なことを、教えられた思いだ。
(こういう時間を大事にしていたらよかったのかな……)
この異世界では、日常を過ごすだけで必然的にスローライフを実現できそうだ。ゆっくりとした時間が流れている。自動車も飛行機もない、そんな世界。文明の進みすぎていない場所で、人とのつながりを大切にしながら、自然体でのんびりと生きる、そんな人生もいいかもしれない、今度こそは、自分のことを顧みず生きるのはやめよう。自分自身の人生を楽しもう。ファルマは初めてそう思えた。
「ねえファルマ。それでも、体にさわりはないの? あのような雷に打たれて……いきなり食事をしても大丈夫なの? 粥のようなものがよいのではなくて?」
食事が始まってほどなくして、ベアトリスがファルマを気遣う。
そういえば家族の中でベアトリスだけがブドウ酒を嗜んでいた。ブリュノは患者からの呼び出しに備え、水を飲んでいる。彼が自分でこしらえたきれいな水に檸檬など搾って香りをつけていた。
「空腹ですので、いつもの食事でいいです。食べられます。体のほうは、記憶が少し混乱しているようです。じきに思い出すでしょう。ご心配なさらず、ありがとうございます母上」
ファルマは落ち着いて両親の問いかけに答える。両親には敬語で、父上母上呼びだ、とロッテに聞いていた。いかにも大貴族の子息といった二人称だが、身につけなければならない。
「しかし命拾いしたな。脈が完全に止まったと聞いたが、落雷からほどなくしてお前に飲ませた
満足そうに口を挟んだブリュノは、彼の薬師としての腕に自信を深めたようだ。しかし心停止して間もない人間にポーションを飲ませたのか、とファルマはぞっとした。助けようとしてくれた気持ちはありがたいのだが。
(いや、ひょっとするとそのポーションがすごく効いたのかもしれないしな)
書物に書いてあったレシピを見る限り、そんなわけはないな、と思ったけれども。
ファルマという少年は寡黙で物静かな人物だったというから、しばらくはそのキャラを壊さないよう振舞わねばならない。違和感を与えないよう、探り探りの演技だ。
そういえば、元のファルマ少年はどうなったのだろう。落雷で一度死んだというから、人格も消えてしまったのかもしれない。そう思うとファルマはいたたまれなかった。
それに彼の体を乗っ取ってしまったようで、非常に後ろめたくもある。
だが、どう後ろめたかろうと、ファルマ少年は死んだのだ、ファルマ少年の自我は消えてしまっている。そのうち脳内に現れるのかもしれないが、今、彼はもうこの体の中にはいない。
(ファルマ少年の供養のためにも、彼の分まで生きるしかない)
心の中でファルマ少年に手を合わせた。
「でも記憶があやふやではいけないわ、心配よ。無理をせず養生するのよ。悩みがあれば何でも言いなさい。食べたいものがあれば、作らせましょうね」
ブリュノの亭主関白ぶりに比べ、ベアトリスの気遣いは多少なりと嬉しかった。
「はい、ありがとうございます母上、嬉しいです」
その後、一言二言ファルマと言葉を交わしたベアトリスは、ファルマの人格が変化したことに違和感を覚えなかったようだ。自分の実の息子なのにそれもどうかとファルマは思うのだが、とにかく事前にロッテにファルマの普段の様子や口調を聞いていたのが幸いした。
「数日は安静にしておくがよい。次の往診には、ついて来られそうか?」
食事を終えたブリュノが、ナプキンで口を拭いながら思い出したように念押しをする。何のことだろう、とファルマが愛想笑いをすると、ファルマの記憶がまだ曖昧だと察したブリュノは、補足の言葉を述べた。
「陛下の往診だ」
「思い出しました。同行いたします」
見習い薬師は師の仕事を見て研修すべきで、宮廷薬師の仕事に同行するものだそうだ。普段のファルマ少年はわずか十歳でありながら、ブリュノとともに診察の見学や手伝いを行っていたらしい。
普段は王侯貴族の往診が主だが、今回の患者はブリュノの患者の中でももっとも身分の高い、やんごとのない人物、サン・フルーヴ帝国皇帝・エリザベート二世である。
(皇帝か。それは大仕事だな)
皇帝相手にブリュノがどんな薬を処方するつもりなのだろうと、ファルマはヒヤヒヤした。治療に失敗して家ごと没落、なんてことにならないことを彼は祈る。
「ところで、今日お前の両腕の火傷に使った軟膏、ゲオライドの産地と調合方法は?」
早速、ロッテの言っていた抜き打ち薬学試問が出た。ゲオライドというのは、地球にはないこの世界の薬だ。
「主成分のハーブ、ティンパーラの産地はラハーラ地方、調合はカテッソの油、トカゲの目玉、こうもりの翅の粉末とともに満月の夜、身を清め祈りを捧げながら聖水で一晩煮つめたものを、翌日から三日間天日干しし、乾燥したものを細かくすり潰したものです」
考える間もなく、先ほど予習していた書物の知識がファルマの口をついてすらすらと出た。ファルマ少年が暗誦していた記憶を借りたのだ。
思わず調合方法を口走ってしまった彼は何とも情けない気分だ。しかし、この場をやり過ごすには仕方がない。
「覚えていたか。さすが私の息子だ」
そんな事情は露知らず、ブリュノは満足そうに大きく頷く。ちなみにあの怪しげな軟膏は長時間皮膚に触れているとかぶれてくるので、短時間だけ使うのが正解である。その点、彼は早々に薬草を取り除き、腕は水できれいに洗っていた。知らず、ブリュノを満足させる行動を取っていたのだ。
「よろしい。体調に特に問題がなければ、明日よりエレオノールの授業を再開させてよいか」
「分かりました」
(エレオノールって初耳だ、俺の知らない人だな)
後ほどロッテに確認したところによると、
ブリュノの一番弟子の薬師で、ファルマの家庭教師だということだった。
(家庭教師が来るなら、勉強しとくか)
真夜中、パジャマを着た妹のブランシュが、一夜漬けで勉強中のファルマの部屋に入ってきた。明かりがついているので、様子を見にきたのだという。
「兄上、今日もおべんきょしてるの?」
女の子の人形を持って、ブランシュはファルマの膝の上にちょこんと乗ってきた。
「ああ、うん。もう寝るよ」
「明かりを消しにきたよ。兄上が頑張りすぎないように、ね」
ファルマを心配そうに覗き込む。妹なりに、雷に撃たれたばかりの兄の心配をしているようだった。
「もしかして、いつも明かりを消しにくる?」
「あい」
ブランシュは口をとがらせ、こくりと頷く。その愛らしさに、ファルマは釘づけになった。
「兄上、頑張りやさんだから。いつも遅くまでおべんきょしてるから、ブランシュとね、おやすみするの」
(妹か。丁度このくらいだったかな……)
彼は前世で亡くした妹のことを思い出していた。V字にとがらせた口が、前世の妹に似ているような気もする。転生して二人目の妹ができ、心の奥に切なく苦しい彼女の面影、闘病中だった記憶がよみがえる。だが、ブランシュの存在に触れ、その呼吸を聞き、ファルマは温かいものも感じていた。彼は家族のぬくもりというものを失って久しかった。
「おやすみ、ブランシュ」
「あい、おやすみ、また明日ね、兄上」
ファルマは燭台の明かりを吹いて消した。暗闇に目が慣れなくても、窓の外から青白い月光が差し込んでくる。
ブランシュの頭を撫でていると、彼女は人形を抱えたまま、彼の腕の中ですうすうと眠りについていた。ファルマは彼女の部屋まで抱えて運び、ベッドに寝かしつけ部屋に戻った。
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