二話 転生薬学者と異世界 (3)
◆
「神術が使えて何よりです! これで一安心でございますねっ」
ファルマのおかげでずぶ濡れになった仕着せの服を着替えて、部屋に駆け込むようにして戻ってきたロッテは小躍りしながらベッドのシーツを取り換える。この世界のベッドは、上流家庭であっても箱の中に干し草を敷いてそこにシーツをかけるだけの簡素なものだった。マットとスプリングスが発明されるのには、まだ時代が下る必要があるようだ。
「ありがとう。シーツなら自分で敷くよ」
自分のことは自分で、と思ったファルマがシーツを受け取りベッドメイキングをしようとすると、ロッテはえっと固まって驚いた。非常識なことをしただろうか、とファルマはシーツから手を放す。
「どうしたの?」
「だめです、ファルマ様にシーツを敷かせるなんて! 母から怒られます! これは私の仕事ですから。そちらで休憩していてください、ね?」
「え、えーと。そうなんだ?」
それで給料が発生しているので、手伝わないでほしいという。しかし彼女は、お気持ちは嬉しいのでありがとうございます、と深々と頭を下げ、感謝を伝えるのを忘れなかった。
「よかったですね、ファルマ様。神術が戻って。後は少しずつ思い出しますよ!」
ファルマの洗濯物を引き出しの中にしまいながら、ロッテはファルマを励ます歌など口ずさむのだった。なかなかの美声である。
「ファルマ様の神術が使えなくなっていたらどうしようかって一瞬でも思った私がバカでした」
「そういえば、この家の家業は?」
ロッテは手を止め、姿勢を正し、少しおすましをして誇らしそうに告げる。
「ド・メディシス家は宮廷薬師のお家柄でございます」
薬師の家柄。
物質具現化能力が使えて、前の世界と物理法則は違っても、科学と薬学の知識はある。地球と異世界では異なる法則もあるかもしれないが、慣れれば何とかなるだろう。
(まず、食いっぱぐれはなさそうだな)
彼はそんなことを思った。
その後はロッテの助けを得て、ファルマは現状把握にかかりきりだった。
ロッテから家族のことやこの世界について説明を受ければ受けるほど、
(なーんか昔のフランスっぽいんだよなあ)
ファルマはそんな印象を抱く。
言語や文化、衣装などは中世から近世時代のフランスのそれを彷彿とさせた。
シャルロットこと愛称ロッテは、上級使用人(侍女)である母親カトリーヌの娘。平民だ。
母親がファルマのお世話係で、ロッテは母に付き添ってファルマの部屋に出入りしている。彼女は五歳から屋敷で働き、今は九歳。召使い歴が長いからか、年の割にしっかりして見えた。敬語もできているし、立ち居振る舞いも美しい。
人懐っこくはあるが、年季の入った一つ一つの動作には気品すら感じられる。
「ここだけの話、強制労働とかさせられてない? こき使われたり殴られたりしていない? 食事はどんなものを食べているの? 肉や魚は?」
ファルマが彼女にそんな質問をすると、ロッテは口をとがらせた。
「どうしてですか? 旦那様によい暮らしをさせてもらっていますよ」
主人のことを悪しざまには言えないのだろう、そう思ったファルマは、
「自由になりたくはないの? 学校に行ったりしたくないの?」
「お優しいんですね。でも、読み書きはお屋敷で教えていただいていますし、お休みもありますし、私は満足しています。このお屋敷から、どこにも行きたくないぐらいに」
ファルマは召使いというと奴隷労働のようなものだと想像していたのだが、どうやら待遇のよい雇用関係にあるようで、母子ともに納得のうえ働いている様子だった。衣食住の保証があってさらに給料も出る。重労働でもないし、休憩時間や昼寝の時間まであり、屋敷で働くのは苦ではないという。労働者の権利もそれなりに保障されているので、いつ屋敷を出ていくのも自由とのこと。
「そうなのか。ならいいんだけど」
「はいっ! これまで通りよろしくお願いします! お屋敷を追い出されたら困ります!」
「こちらこそよろしく」
ほかにも、家令や執事を筆頭に屋敷の内外に百人近くの使用人たちが配置されているとのこと。
屋敷は総石造りでコの字型、バロック様式の過渡期のそれに酷似している。屋敷は古く、歴史を感じさせたが、古いながら美しく管理されていた。
「ところで、家のことを教えてくれないか?」
「喜んで!」
ファルマは屋敷の構造をロッテに尋ねる。
建物は三階建てで、これに地下の倉庫と屋根裏部屋が加わり、敷地面積はちょっとした城なみの広さを誇る。
一階は玄関ホールと応接室、大広間、食堂。
二階が両親と子供たちの部屋。父親の書斎兼執務室。
ファルマの部屋は、中庭に面した二階にある。
三階は家令、執事の部屋。図書室、物置、薬草保管庫。
使用人たちは、屋根裏部屋に住んでいる。
屋敷が広すぎるのと、開かずの間や主人しか入れない部屋もあり、ロッテも全ての部屋に行ったことはないという。
「確かに、名家だ……」
「はいっ、自慢のお屋敷です! 築二百年以上になります」
ロッテは何を答えるにも明るくはきはきして、天真爛漫だった。
「俺についての質問もしていい?」
「分かることでしたら」
「俺の名前。
薬アピールしすぎだろう! とファルマは地面に穴を掘って叫びたいほど恥ずかしい。とはいえ、彼の前世の名前も
「たぶんだけど、珍しい名前だよな?」
姓に職業名をつけるのはまだ分かるし、地球でも欧米圏ではそうだ。でも、名前にまで人間らしからぬ名をつけるのは反則じゃないのか、とファルマは思う。
(名づけ親はどんな人なんだろう? 変わった人っぽいな)
ファルマは心配になった。両親と馴染めるのだろうか、と。
「ふふ、確かに変わっていますね。でも兄上様は、パッレ様ですよ?」
パッレとは丸薬という意味のようだ。ファルマは真顔になった。
(俺よりもっと気の毒な人がいたな。異世界版キラキラネームじゃないのか?)
「旦那様が将来を期待しておられるのですよ! パッレ様もファルマ様も!」
父親の薬学への暑苦しいまでの思い入れの強さに、ファルマは若干引いてしまう。
「大変だな、兄は」
「そうですか? パッレ様はご自身のお名前に誇りを持っておられます。ところで今夜はその旦那様がお屋敷にお戻りです、ファルマ様もともにお食事を。……あっ」
「何? あっ、て」
ロッテがぱたぱたと手を動かして慌てふためいているようだったので、ファルマは身構える。
「ももも、もしかして、今までの薬学の知識は、すっかり忘れてしまいましたか?」
「忘れてると思うけど」
「まずいです! それは非常ーにまずいです!」
「そんなにまずいのか?」
「思い出してくださいっ!」
ロッテにそう言われてファルマは危機感を覚え、部屋に据え付けられている本棚にずらりと並んだ書物を一冊ずつ手に取り、ぱらぱらと斜め読みする。書物は全て筆写人の手書きで、それゆえ医学書や薬学書は非常に高価だ、とのこと。にもかかわらず、次男であるファルマの書棚に彼専用の分厚い書物が何十冊も並んでいるところをみると、家は相当に裕福なのだろう。
「旦那様はファルマ様に、薬学の抜き打ち試問をよくなさいますので、お気をつけて」
彼が宿る前のファルマ少年は、幼少時より薬師としての英才教育を施されていたらしい。これらの書物にある薬は全て、ファルマ少年の記憶に入っているし調合方法もそらんじることができるはずだ、とロッテは力説する。
(それは一大事じゃないか! 今日は落雷で記憶がないでごまかせたとしても、それじゃ済まないかもしれないし、いつまでも思い出さなかったら怪しまれる。こうしてる場合じゃないぞ)
付け焼刃でも大至急暗記をしなければ、とファルマは焦ったが、その必要はなかった。
「あれ。これ見た気がするな。これもだ。思い出してきたぞ」
ファルマ少年の知識の蓄積があったからか、彼は医学書も薬学書も判読できたし、うっすらと内容も思い出すことができた。
「にしても、これは」
「難しいですか? 難しそうです!」
ロッテが恐ろしそうに首をすくめる。彼女は、文字が書物一面にびっしりだと、難しそうに見えるそうだ。
(これは、ひどい)
彼が手に取った様々な書物に記されていたのは、おぞましい代物だった。誤った治療法や手術法、毒物だらけの薬のレシピ。もはや医療ですらない神々への祈祷の方法、病を支配する星の見方、数秘術の読み解き方、などなども間違った方向で充実していた。
神術というわけの分からないものがある世界、という前提がなければ完全にまじないだ。
地球でも近代に入るまで似たようなものだったが、それと同じ状態だった。
それらが医療としてまかり通っている。
いくつかの書物を読むところによると、この世界では『病は神の与えた試練』という考えが根本にあり、医学・薬学と宗教、星占術は密接に結びついていた。祈祷にすがったり、星の動きに右往左往してみたり。治療の結果患者が死に至っても、医師や薬師たちはそれを神罰だということにして、患者に責任を負わない。
(いやでも、こんな治療法で異世界人は治るのか? 地球人と体の構造が違って、神術での治療は効果がある? 地球人には毒物でも、異世界人には効くとか?)
そんな推測をもとに症例報告から実際の患者の治癒率を計算しても、治癒率はかなり低かった。地球の中世レベルと何ら変わらない。
(効いてないじゃないか、これ)
この世界の医学、薬学の知識は悲惨なものだった。治癒率が高いならともかく、誰もかれもこんな怪しげな、呪術まがいの民間療法に傾倒しているのかと考えるとファルマはやるせない。
(暗黒時代だな、この世界の医療は)
健康な人でも治療と称した行為で死にそうだった。
「ファルマ様ー、目が疲れません? 少しは休憩なさいませー」
難儀そうな顔をしていたファルマを見たロッテが、心配して声をかける。
「心配してくれてありがとう、もう少し読んでからね」
何時間もぶっ通しで書物にかじりついているファルマを見守っていたロッテは、甲斐甲斐しく差し入れを運びつつ、
「お勉強熱心ですねぇ、ファルマ様は。そのお姿、素敵です」
と、憧れのまなざしを向けるのだった。ロッテは文字の読み書きはできるが、勉強をやり込むという習慣もなければ、短時間で集中力も途切れてしまう。たった一つ年上なのに、自分とは大違いだ、とロッテは尊敬するようだ。
どれほど時間が経っただろうか。
薄暗くなった部屋で、ファルマは絶望的な気分とともに本を閉じた。
「何とかしないとな、この世界の人々のためにも」
正しい知識があるだけで、それを多くの人々に伝えるだけで、死なずに済む人がいるだろう。
まやかしではなく真に効果のある薬を飲めば、無視できない数の助かる命もあるだろう。大規模な疫病をしりぞけることだって、知識があれば不可能ではない。
前世の彼は研究に明け暮れ、患者ではなく薬とばかり向き合う毎日で、彼が本当に薬を届けたかった患者の傍に寄り添うことができなかった。前世での後悔を胸に、今度こそ病にあえぐ人々の傍にいたい。その手で、ささやかでもいいから身近な人々を、縁を持った人々を一人ずつ助けてゆきたいと、彼は強くそう思った。
もしかすると、そのために前世の記憶を持って転生したのだろうか、そんな考えが彼の脳裏をよぎったのだった。
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