第2話 洞窟の外へ

 洞窟に住み始めてからおよそ五百八十日目。

 蔵人は洞窟の壁にナイフで毎日刻んだ五百八十本の一の字を見つめていた。

 ふと手慰みにと、傍らに寝そべる白毛に黒い斑紋を持った、ゆきひょうにも似た魔獣の鼻先を指でピンっとはじいてみる。

 すでに地球にいる雪豹の成獣ほどの大きさはあるこの魔獣は、しかしこれで成獣には程遠いのだというのだから驚きである。

 鼻を小突かれた魔獣はつむっていた目を開き、ちょっかいをかけてきた不届き者を不満そうに見上げた。そして体長のゆうに倍はある長い尻尾で蔵人の身体をペシペシと打って抗議する。

 顔や背中、しまいには蔵人の首に尾を巻きつける。

 すると蔵人は無言で魔獣の喉元をでてやった。

 たちまち魔獣は、ごろごろごろごろと猫のように喉を鳴らし始めた。

 はたから見ればじつにバカバカしいやりとりだが、いつものことである。

 『ゆきしろ』と名づけたこの魔獣との遭遇は、蔵人がようやく洞窟の外に踏み出してしばらくしたときのことだった。


    ***


 洞窟に引きもらざるを得なかった厳冬期の間、当面の食料問題に悩まずにすむ蔵人は、それ以外の生存に必要なことの準備を十全に整えようと考えていた。

 今すぐ外に出たところで遭難するのは確実であり、危険と思われるこの世界で、一般的な日本人など無力であることは想像に難くない。蔵人は分厚い魔法教本の習熟に専念することを決め、ついでに基礎体力の向上も合わせて行うことにした。

 といっても、体のほうはそれほど専門的なことはできそうにないため、やはり中心は魔法技術となる。

 そう決めるや蔵人は、洞窟に光が差しているうちにと魔法教本をぱらぱらと斜め読みし、すぐに実践した。魔法という未知の技術に少し興奮していたのだ。だが──。

「火よ」

 気絶した。


 全身に軽いとうつうを覚えながら起き上がったときには、もう日は落ちていた。どれだけ時間が経ったのか、腕時計を確認しようにも暗くて何も見えなかった。

 その日はのろのろと洞窟の奥に引っ込み、身体の奥に疼痛を感じながら眠りに落ちた。

 斜め読みはキケンだな、という教訓とともに。

 翌朝、より一層ひんやりとしてきた空気とともに目を覚ますと、すぐに魔法教本を手に取る。

 日中はともかく、太陽が落ちた後の洞窟内は日一日と室温が下がっていた。まだまだ凍死するほどではないが、どこまで下がるのかわからない以上、魔法の習得を急がねばならなかった。

 ついでにリュックサックから取り出した携帯食をぼりぼりとみ砕きながら、目次、序章、一章と、この世界の住人が少年少女期に教えられるような基本的なことを、蔵人は隅から隅まで読み、念のためもう一度読み返してから、また実践した。

「小さな火よ」

 今度は脳に釘を打たれたような頭痛とともに気絶した。

 教本では気絶や疼痛、頭痛自体は問題なく、疲労や筋肉痛みたいなものだとされていたため、蔵人は気にせず魔法を使用した。

 結果としては、詠唱はしても伝えるべき意思を明確にできておらず、さらに自身の魔力をコントロールして放出することもできなかった。

 つまり魔力を得られると勘違いした空気中のあらゆる精霊にありったけの魔力を吸い上げられたうえ、なんの現象も起こせずに蔵人は気絶し続けていた、ということになる。

 魔力とは、簡単にいえばこの世界の生きとし生けるものすべてが持つ生命力、その余剰分がプールされたもので、魔法として使用する際に使われるものである。

 蔵人はそれを一度に吸われ、生命の身体機能維持に使われている生命力にまで影響が及んでしまった。それに危機感を覚えた身体は、蔵人が許可していた外部への魔力の供給を強制的に遮断するために自らを気絶させた。

 そうした状況に陥ると身体は生命力が足りないと勘違いし、生産する生命力を増やすといわれている。この世界の人間が生産できる生命力を百だとすると、身体機能維持に五割が使われており、残りの余剰生命力五割を魔力として使っている。この配分は身体が生命力の総生産量を増やしても変わることはない。

 つまり身体に勘違いさせて生命力を百から百二に増やしたとしても、増える魔力は半分の一でしかないということだ。

 ちなみに身体そのものを鍛えることによっても生命力を増やし、魔力を増やすこともできるが、この方法と違って大きく増えることはなかった。

 現在では推奨されていないが、こうして魔法を失敗することで空気中の精霊の存在と自身の魔力の存在を認識させ、さらに魔法を使用するに足るレベルまで魔力を増やすことができると教本に書かれていたがゆえの、蔵人の行動だった。

 蔵人は確かに、魔力を吸い上げる不可視・不可触のプランクトンにも似た何かが、公園のハトのようなハングリーさで魔力というエサに殺到したのをかすかに感じながら気絶していた。

 蔵人はむくりと起き上がる。

 まだ脳の奥から耳の奥にかけて鈍い痛みが残っていた。

 腕時計を見ると丸一日経っていない。三時間ほどの気絶だったようである。

 そしてまた──。

「小さな赤き火よ」

 心臓のあたりがキュウと痛んだと同時に、気絶した。

 その後もさらに十回ほど気絶を繰り返す。いったい何日何時間経ったのかわからなくなり、だが気絶の間隔が短くなったころ、部屋の真ん中に掘ったすり鉢状のモドキの中央には、誇らしげに拳大の赤い火が揺らめいていた。

 それは最も簡単なせい魔法であり、この世界の住人が煮炊きに使う程度のごくごく一般的なものだったりする。

 それでも初めての魔法を成功させた蔵人は、ますます魔法に没頭していった。


 朝起きて気分転換に外を眺める、そして気絶、もとい魔法を実践する。

 蔵人がそんな日々を送っていると、いつのまにか吹雪はピタリとやんでいた。

 洞窟の壁の傷は百八十一本、つまり召喚されてから百八十一日が経過していた。


 その日、朝起きて、いつものように外をのぞこうと洞窟の出入り口に向かっていると、毎日のようにごうごうと聞こえていた吹雪の音がまったく聞こえないことに気がついた。

 はやる気持ちを抑えながら、洞窟の出入り口に施した土のふたを崩していく。

 この土の蓋はせい魔法のあとに成功したせい魔法で作ったもので、これにより洞窟内に冷たい風が吹き込むことがなくなった。

 土の蓋を崩すと、まばゆいばかりの朝日が差し込み、蔵人は目を細めた。

 しばらくぶりの直射日光であった。

 うっすら開けたまぶたの先には見通しが格段によくなった対面の山肌が見える。朝日が差し込んだ岩場の、ことさら大きな岩の上にはいつものように雪豹に似た魔獣が寝そべっていた。

 魔獣がのそりと首をもたげると、首から腹部にかけて混じりけのない白毛が見える。全体として雪豹よりも黒い斑紋は少ない。

 かなり離れた場所から蔵人をジッと見つめる灰金色のそうぼうは、何ものも己を侵すことを許さないというきょうをたたえているようだった。

 そしてそれ以外はどうでもいいとばかりに、すぐにまた何事もなかったかのように寝そべるのだ。

 蔵人にとってまぶしいくらいの野生であった。

 洞窟に篭もっていた百八十日の間、たまに吹雪が薄くなることがあった。

 そんな時に外を覗くと、いつもこの魔獣がいた。

 初めて目が合ったときは、食い殺されるのではないかと身をこわばらせていたが、数日、十数日もそれが続くと、相手にそんな気はないのだと気づいた。蔵人の動向を見張っていたのかもしれないが。

 それでも実際お互いが近づいたことはなかった。

 諸説あるが、魔獣とは魔法教本の定義によると『魔法を使う獣』という意味らしい。

 その存在は既存のめいせいに他の精霊が融合して世代を経た結果、魔法の使える一つの種となったものであると。

 めいせいとはこの世界のあまねく生物に宿る精霊といわれ、生命力を生み出す根源であり、木も、虫も、そして人間も、それぞれにたった一つだけ有しているものである。もう一つの『心臓脳』とも言われている。

 広義に見れば、人間もまた精霊なのであり、もしかしたら魔獣であるのかもしれなかった。

 一切交渉の余地のない『怪物モンスター』──精霊が腹を減らすなどして変質し、具現化した、天災にしてあまねく生物の敵──とは存在からして違っていた。

 魔獣すべてが交渉可能であるとはいえないが、少なくとも余地はある。

 現に雪豹のような魔獣と蔵人の間には、無言で相互不干渉が築かれていた。

 蔵人に敵対意思や攻撃能力がなかったがゆえのことかもしれないが。

 蔵人としてもこの寒さの中であっても、その暖かそうな毛皮を狩ってやろうとは考えなかった。

 わずかとはいえ、暖の確保を終えていたということもあったが、そんなことが可能だとはじんも考えられなかったのだ。


 そんな相互不干渉な関係性の中で、蔵人が毎朝外を眺めるのはこの魔獣を見たいがため。それは起伏のない一日の娯楽であり、自分以外の他者の存在の確認であったのかもしれない。

 ずっと眺めていた存在に近づくように、蔵人は今日、外に出ることを決めた。

 すると、身震いが一つ。


   ~試し読みはここまでとなります。続きは書籍版でお楽しみください!~

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【書籍試し読み版】用務員さんは勇者じゃありませんので 1 棚花尋平/MFブックス @mfbooks

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