第1話 一人、立つ

 蔵人くらんどほおをかすかにでる風を感じて、自分はすでに別のどこかに立っているのだと気づく。

 目を開いてすぐにここが洞窟だとわかったのは光のせいであった。

 差し込む光のほうを見ると、遠目に白と青の世界が広がっていた。

 その光景に誘われるように蔵人はふらふらと洞窟の出口に歩いていった。


 肌を刺す冷たい空気も、鼻の奥に感じるツンとした冷たい痛みも気にならなかった。

 そこには果てしない空と白い山々があった。

 見上げると太陽を横切るように、鳥ではない大きな何かが飛んでいた。

 向かいの山肌には、異様に尾の長い白い猫科らしき生物が尾根伝いにかっしていた。

 すべてのしがらみから解き放たれたようだった。

 不自由な状況とここでの苦労も想像できたが、それよりも、立場も、世間体も、給料も、偏見も、自尊心も、何もかも捨て去ってしまえたのだという感慨があった。


 どれだけそうしていただろうか。

 蔵人はぶるりと冷えを感じる。用務員として作業していたときのままのアースグリーンの作業服の上下に黒いブイネックの長シャツ、首に巻いた白いタオル、安っぽいアナログの腕時計、頑丈そうな紺色の長靴といった格好で、雪山に対応した服装ではない。

 蔵人はそこから離れがたい気持ちを残しながらも洞窟の奥に戻っていった。


 引き返してくると、大きなモスグリーンのリュックサックが通路に置かれているのを見つけた。

 蔵人は声の主が用意してくれたものだとすぐに気づいた。

 外の光景と洞窟、そして声だけの白い空間を思い出し、あらためて自分が本当にどこか別の世界に来たのだと、ようやく納得できたような気がした。

 蔵人はその場でリュックサックを足の間で抱え込むようにして座り込んだ。

 そしてくちひもを緩め、中をのぞき込むが、何もない。リュックサックの底が見えるだけである。

 そんな馬鹿なと手を突っ込むが、ないものはない。

 結局、願いがかなったのは『一人』で『雪山』に召喚されることだけかと、蔵人は落胆する。

 だがどうしても諦めきれずに食べ物や水のことを切実に考えながら、空のリュックサックの底を隅々までさらった。

 こんな大自然を、水も食料もなしに生きていく自信などあるわけがない。

 すると、手に何かがすっぽりと収まる。

 すがる思いで手を引き抜いて見ると、フランスパンのような何かであった。

 よくよく見るとクッキーをフランスパン状にして焼き固めた、携帯食のようなものであることがわかる。

「これを食え、と」

 ポツリと洞窟に響いたその言葉には、食料があったというあんと、しばらくは同じものを食べなければならないという落胆がにじんでいた。

 その携帯食は空のリュックから次々と取り出すことができ、水も小さめのたるに入って出てきた。

 おおよそ一年分といったところだろうか。

 そしてさらに生きるための道具はないかと思いながらリュックサックをあさると大振りのナイフ、さらになんと題名に『魔法教本』と書かれた分厚い百科事典のような本も取り出せた。

 取り出した水と携帯食が洞窟の通路に所狭しと並んでいる。

 この背中半分ほどの大きさの、外側も内側もどこからどう見ても何の変哲もないリュックサックの、どこにこれだけのものが入っていたのか。

 蔵人はなんとなしに、作業着の胸ポケットに入れておいた鉛筆をリュックサックに入れてみる。

 だが、ぽとり、とリュックサックの底に鉛筆が落ちただけであった。

 首をかしげながらズボンのポケットに入れておいたあめだまも入れてみる。

 こちらは、入れた瞬間に消えてしまった。

 はて、と思いながらリュックに手を入れ、飴玉を探すと携帯食の時と同じように、すっぽりと丸い飴玉が手に収まる。

 もともと入っていた大振りのナイフと魔法教本以外は飲食できるものしか出し入れできない。

 蔵人は首を傾げながらもそんな風に判断した。

 願いはそれなりに叶った、といえる。

 雨風をしのげる洞窟、およそ一年分の水と食料、護身用のナイフと魔法教本。

 あとは盗まれた力と衣服だけである。

 力については確認しようもないため、蔵人は着ている作業着を確かめてみる。と、何か違和感があった。

 まるで変化がない、ということでもないようで、こころなしか丈夫になっているようである。ただの布がジーンズのように頑丈になったという程度ではあるのだが。

 このなんとも頼りない願いの産物に、蔵人は本当に最低限だなと思いながら、地面に散らばっているナイフ以外のものをしまい、リュックサックを肩にかけて立ち上がる。

 リュックサックは内容物の割に、重さはほとんど感じられなかった。


 日が陰ってきていた。

 完全に暗くなる前に、寝床を確保しなくてはならない。

 この通路には風が吹き込んできていた。

 ときおり、ひどく冷たい風が吹き込むこの場所で寝ることなど考えられなかった。

 蔵人は大振りのナイフを右手に構えて洞窟の奥へと歩きだした。

 薄暗い洞窟の幅は人が二人分ほど、高さは身長百七十センチの蔵人の頭上三十センチほど余裕があった。洞窟の壁にはコケなどはなくまっさらで、匂いも土の匂い以外はしなかった。

 何かいるような気配も蔵人には感じられない。

 それでもできうる限り慎重に奥へ進んだ。


 結局、幸いにして先住者はおらず、洞窟の最奥へ到着する。

 そこは六畳間ほどの何もない空間だった。

 だが生活の拠点にするにはちょうどよかった。

 その日、蔵人はここを家と定め、入り口からかすかに差し込む光がなくなった時点で眠った。

 無防備すぎたかもしれない。しかし現状では警戒すらできないのだから諦めるほかなかった。


 薄暗い中、ごうごうとした音に蔵人は目を覚ます。

 昨夜は寒いというほどではなく、いろいろあって疲れていたせいか割とよく眠れたのだが、今はそれよりも少しひんやりしているようだった。

 蔵人は寝ぼけ眼のままふらふらと立ち上がり、かすかに差し込む光に誘われるように、そのまま通路へ出た。

 そうして遠目に見た景色は、猛吹雪だった。

 そのくせ朝日らしい光も差し込んでいる。

 通路を進むごとに気温が下がり、反比例するように蔵人の意識は覚醒していった。

 そうしてあと十数歩で外だというときになって、蔵人はくるりと身をひるがえす。

 目尻の涙が一瞬で凍りついていた。

 早足で奥の小部屋に戻りながら考える。

 早急に暖房と出入り口のふた、それとできれば明かりをどうにかしなくてはならない。

 日本にいた頃のように『あれがなければ死ぬかもしれない』ではないのだ。『あれがなければ死ぬ』なのだ。

 蔵人は身をって知った。

 生存するということ、そのすぐそばには石ころのように死が転がっているのだと。

 その石ころを避けるすべがなければ、あっけなく死ぬのだということを。


 小走りに洞窟の小部屋に戻った蔵人は、リュックサックから分厚い百科事典のような魔法教本を引っ張り出し、食い入るようにしてページをめくる。

 幸いにして紙質は厚く、百科事典ほどのページ数はない。

 文字も英語に似た言語で書かれているようだが、なぜか読むことができた。

 蔵人は生存するためだけの勉強を開始した。

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