1-9


「きゃあああああああああああっ!?」


 落ちる先には何もない。硬い地面が広がっているだけだ。

 頭から真っ逆さまの転落。数秒もたたずに激突して、幼い頭部は割れてしまうだろう。目を覆いたくなるような最悪の展開が脳裏をよぎった。

 このまま見過ごすなんて、絶対にダメだ。

 

「ぐっ……このぉっ!」


 石化しかけの体が鉛のようにずっしりと重い。

 過労で倒れた時のように力が入らない。

 だけど今行かないと間に合わない……!


「う、お、お、おおおおおっ!」


 全力を込めて大地を踏みしめ、動かぬ足を一歩前へ。

 硬直した筋肉を奮い立たせて、ハーブちゃんの元へ。

 するとほんの一瞬、ふわりと足が軽くなった感覚がして、徒競走のスタートよろしく前のめりに体が飛び出す。

 石化が浅めだったおかげか、呪縛が解けたらしい。気合いの勝利だ。


「と、ど、けぇええええええええっ!」


 ハーブちゃんが墜落していく場所へと駆ける。

 激突するまで時間がない。

 両手を伸ばし、未来ある小さな体を受け止めようと飛び込む。

 あと少し。

 もう少しで届く。

 オレの腕の中で、ハーブちゃんを受け止められるんだ……!


「きゃんっ!」

「てぃたのぼあっ!?」


 届き過ぎた。

 ヘッドスライディングのように飛び出した結果、勢い余って落下地点を行き過ぎてしまう。そのせいでハーブちゃんはオレの背中に胴体着陸、否、顔面着陸した。

 人間の幼児よりも重い体が、位置エネルギーを威力に変換しながら落ちてきたのだ。骨も内臓も粉微塵こなみじんに潰されたと錯覚するほどの衝撃。奇跡的にノーダメージで済んだのは、学生時代に体を鍛えていたおかげか。モテには繋がらなかったが、命は繋ぎ止めてくれたようだ。努力は裏切らないと言うが、これが良い例になるだろう。


「げほっ……ごほっ……。ああ、無事でよかった」

「……ふぇ?」


 背中から下ろしたハーブちゃんは、転落のショックでまだ呆然としているようだが、外傷はどこにも見当たらない。オレの体がクッション代わりになったようで、こちらもケガはなかったみたいだ。

 一歩間違えたらどちらも大ケガ、最悪命の危機だったが、奇跡的に無事に済んでよかった。日頃の行いの良さに感謝しておこう。


「……――あっ。せ、せんせー、おケガしてないっ!?」

「えっ?」


 はっと現実に戻ってきたハーブちゃんの第一声は、オレを気遣う言葉だった。

 意外な一言に、間抜けな返事をしてしまう。


「せなかは、あたまは!?ち、でてない!?」

「……――ぶふっ」


 これまでの反抗的態度ではなく、年相応に心配して慌てふためく姿に、微笑ましくて思わず噴き出してしまった。ずっと態度が悪かったが、こちらが本来の彼女なのだろう。咄嗟とっさの時にこそ、一人一人の本質が見えると言う。えみる先生が言っていた通り、わざと生意気な行動をとっていただけなんだ。


「なっ、なんでわらうのよーっ!」

「はははっ、ごめんごめん」


 ぷくっと頬を膨らませているところも可愛い。助かった安堵感からか、それとも笑われた恥ずかしさか、うるんだ瞳の目尻には輝く水滴が浮いている。

 やっぱり、素直なのが一番だ。


「先生はケガしてないし、痛いところは……あるにはあるけど、とりあえず大丈夫だから、気にしないでよ」

「でも……」

「その代わり!もうこんな危険なことはしないって、先生との約束だからねっ!」


 ハーブちゃんの顔をむぎゅっと両手で掴み、真正面から詰め寄る。

 今回は二人とも無傷で事なきを得たが、少しでも歯車の噛み合いが違ったら、笑って済ませられなかったかもしれない。大事故に繋がりかねないヒヤリ・ハットだ。ここはきっちり言わせてもらう。


「うん、わかった。わたし、もうあぶないことしない」


 即答だった。

 青い瞳で真っ直ぐに、オレの目を見て言ってくれた。

 これでハーブちゃんの気持ちは伝わったので、お説教の時間は終了。長々と叱るのは逆効果なのですぐに切り上げるのだ。誰だってねちっこく怒られたら、気分最悪になるのだから。


「だって……」


 しかし、ハーブちゃんは続ける。

 とっくに顔から手を離しているのに、まだ何か言おうとしている。反論でもあるのだろうか、と待ち構えていると――


「せんせーとこいびとになるんだもんっ!」

「は?」


 ――突拍子もない単語が登場して、思考が瞬時に凍り付いた。

 恋人?

 何故急にそんな話になったんだ?

 オレは彼女を叱ったのであって、告白した覚えはないぞ?

 と、頭の中がグチャグチャにかき乱されているところへ――


「んっ!」

「んんんっ!?」


 ――オレの胸の中へと飛び込んでくるハーブちゃん。止める間もなく簡単に押し倒されてしまった。不意を突かれた人間に抗う術などない、力任せの抱擁ほうようだ。

 そして唇同士が触れ合う。

 ぷるん、とした瑞々みずみずしい柔らかさが纏わりついてくる。

 細長い舌が唇をこじ開け、内部へ穿孔するようにうねりながら侵入すると、無防備なオレの口内を舐め回す。突然のことに怯えるオレの舌にも絡みつき、慰めるように撫で回してくる。


「んぷっ!」


 ちゅるり。

 舌が抜け出して、蛇の容赦ない蹂躙じゅうりんが終わりを告げた。

 時間にして数秒、長くても十秒程度。混乱と混沌が支配する一時だった。


「はぁ……はぁ……。な、何でこんなこと……!?」


 キス、接吻せっぷん、口づけだ。

 オレのファーストキスが子どもの、しかも保育をしているラミア族の女の子に奪われた。

 強引に、許可なく、無理矢理。

 抵抗する間など与えられず、一瞬で。


「それは……せんせーが、すきだから」

「は、はい!?」


 問い詰めるオレに対して、ハーブちゃんは恍惚こうこつとした表情。四歳児とは思えないような、淫魔サキュバスのような妖艶ようえんさを醸し出している。体格も相まって、目の前にいるのが、一人の大人の女性かと《見紛みまが》うほどだ。


「わたしのこと、ほんきでおもってくれるひとだってわかったから……。だからぜったいに、せんせーのかのじょになるのっ!」

「え、えぇ……」


 君のことを大切に思っている、そのことに気付いてくれたのはとても嬉しい。

 素直に自分の気持ちを伝えてくれるようになったことも、素晴らしく良いことだ。

 だけど、そういう意味じゃない。

 恋愛沙汰の渦中に飛び込んだ記憶なんて、オレにはさっぱりないのだが。

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