1-6


 午後の保育はハーブちゃん一人だけだったので、比較的楽に過ごすことが出来た。体力が残り少なくて限界ギリギリだったが、これならどうにかなりそうだ。あと少ししてお迎えが来れば、怒濤どとうの初日が幕を下ろす。


「だーかーらー、ちかくにこないでよっ!」

「だこう゛っ!?」


 ハーブちゃんの尻尾による強打が鳩尾みぞおちに炸裂した。腹の中身が喉元まで戻ってくる。胃酸で焼けるような感覚がした。鈍痛と気持ち悪さで吐きそうになる。

 日が落ちて空はもう真っ暗闇の夜。春先特有の夜風が吹き始め、肌寒くなってきた時間だった。そのため外遊びをやめて、保育室に戻ってきた。そこで絵本や玩具を薦めてあげようとして、この一撃を食らったのだ。

 オレは腹を抱えてうずくまってしまう。何が彼女の怒りに触れてしまったのか、さっぱり理解出来ない。


「な、何がそんなに不満なんだよ……っ!」


 大人げない、感情そのままの聞き方をしてしまう。


「おしごとでわたしにやさしくしてるだけって、バレバレだからだよ」

「ンだよ、それ……」


 その回答は幼児とは思えない、すれた物言いだった。

 ハーブちゃんの言いたいことは分かる。オレ達保育士が、子ども相手に様々な遊びを提供したり安全に過ごせるよう保護したりするのは、究極的に言えばそれが仕事だから。世のために働いてお金をもらうためだ。そこは否定出来ない。

 しかしそんな極論を引き合いに出してしまったら、社会の全てがお金と生活のためにやっていることばかりだ。例外は愛と正義のために身を削る、打算のない慈善事業くらいじゃないだろうか。


「ハ、ハーブちゃんは、どうしてそんなに嫌がるのかな?」

「うるさいなぁ、ちちデカせんせー」

「ひっ!」


 間を取り持とうとしたえみる先生にも暴言を吐いている。しかも瞳の色は真っ赤で、石化能力を使って手出し出来ないよう先手を打っており、余計に性質たちが悪い。

 人間の素の力では、ラミア族との真っ向勝負は不利だ。オレ達保育士の言うことを聞いてくれない現状では、今後のクラス運営がしっちゃかめっちゃかになるだろう。いわゆる学級崩壊という、教育者が絶対経験したくない最悪の状況だ。


「遅くなってごめんなさい!」


 ニョロニョロと激しく下半身をくねらせて、一人の女性が駆け込んできた。濃い紫色で少し癖のあるストレートヘアーを乱れさせる、スーツのスカートから蛇の下半身を伸ばしたラミア族。ハーブちゃんの母親、アナンダさんだ。仕事が終わって急いでお迎えに来てくれたらしく、スーツがしわくちゃになっている。閉園時間ギリギリになってしまい、焦ってやってきたようだ。


「あ。ママ、おかえりー」

「ごめんね、待ったよね?大丈夫だった?」

「ううん。へいきだよー」


 先程までの態度とは打って変わって、清々しいまでに良い子ちゃんモードのハーブちゃん。何事もなかったかのように振る舞っているが、殴られたオレと石化しているえみるさんは全然平気じゃない。


「あの、うちの子がご迷惑をおかけしました」

「い、いえ……そんなこと……ははは」


 深々と頭を下げるアナンダさんに、愛想笑いしか出てこない。

 はっきりと「あなたの娘から、大変な迷惑行為を受けました」と言いたい気持ちをぐっとこらえる。保護者対応も保育士として必要なスキルだ。今後とも仲良くやっていくためにも、余計な争いごとは絶対に避けないといけない。


「あと、もう一つ。大変申し訳ないんですけど……」

「は、はい」

「明日からもこの時間のお迎えになるので、よろしくお願いします」

「え、マジ……――あっ」


 思わず本音が漏れてしまった。

 この跳ねっ返り娘が、これからずっと遅くまで残るというのか。


「やっぱり大変ですよね……」

「す、すいません!そんなことないです、失礼言って申し訳ありません!」


 慌てて両手をばたつかせて失言を訂正する。子どもの世話が大変、なんて程度を保護者の前でとってはいけない。当たり前のことだ。なんて初歩的な失態をやらかしているんだ、オレは。


「ふーん。どうせそーだとおもってたも~ん」

「あっ、こらハーブ!一人で勝手に行っちゃダメでしょ!」


 オレの失態を聞いていたハーブちゃんは、案の定気分を悪くして立ち去ってしまう。「ほとんどお前のせいだろ」と内心毒づきつつも、失言してしまう自分の未熟さの方が腹立たしい。

 結局、ドーサ親子は帰ってしまった。

 初日から大きな失敗をした。これからの信頼関係構築が、早くも暗雲に飲まれてしまったようだ。


「ああ、くそ。何でハーブちゃんはあんな態度をとるんだよ……」


 今日一日、オレが何かした訳じゃない。出会って一発目から敵意剥き出しだったんだ。自分側の原因に心当たりがない。胸に手を当てて考えてもさっぱりだ。


「あ、もしかして……」


 ぽつり、とえみるさんが呟いた――怯えたポーズで固まったままで。


「もしかしてハーブちゃん、寂しかったからじゃないかな……?」

「寂しい?」

「あの、えっと……いつも帰りが遅くて、お母さんとの時間も短くて……それで大人に構ってほしくて、わざと悪ぶってるんじゃないかなぁ……って」


 そうか、その視点はなかった。

 小学生が好きな子相手に悪戯してしまう心境と同じで、相手から反応がほしくてわざと怒らせるようなことをしているんだ。十一人の園児の中で、自分だけを見てほしい。もっと一緒にいてほしい。そんな思いが悪さに繋がっている訳だ。


「あの、ところで鈴振さん」

「ん、何?」

「これ、いつになったら解けるんですか?」

「あー……そのうち」


 あと、えみるさんの石化状態が解けるのは、何故かオレ以上に時間がかかっていた。個人差があるのだろうか。

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