暁の空
――その夢から目覚めると、いつも視界が滲んでいる。
残っていたざらりとした悪夢の感触は、現実へと紛れていった。
目元を拭って、何度か瞬きする。
見上げている天井は慣れない高さだ。背中の感触も、自分のベッドではない。
……ここ、どこだっけ。何してたんだっけ?
触ると、どうも腹に包帯がぐるぐる巻かれているらしい。
痛みと共に記憶も戻ってきた。ここが学校の保健室であることにも思い至る。学校の前で戦闘していたのだ、近いところに運ばれたのだろう。
そうだった、俺は「影渡り」に噛まれて――。
再び脇腹を触る。
しかし、噛まれるとどうなるんだろう? 魔力が持っていかれるから、あまり関係ないのかな……?
よいしょ、と上体を起こし、怪我の具合を確かめるため、呼吸に意識を向ける。
たしかに脇腹はじんわりと痛いが、他の動きに影響が出るほどではなさそうだ。
――記憶の最後、クロトが安心して良いというようなことを言っていたが、ほんとうに捕獲はうまくいったのだろうか?
その前に先輩は? 他の人たちも無事なのだろうか?
壁掛けの時計に目をやると、針は4時半を指していた。
窓の外は、夕暮れとも朝焼けともつかない薄明に満ちている。だが、身体の疲れは朝であることを示していた。まだどことなくだるい。
「――ありゃ、起きちゃった?」
引き戸の音と声にそちらを見ると、コンビニ袋を下げたひなたがいた。
「先輩! 無事だったんですね!」
言ってベッドから降りようとすると、「待って待って」とひなたは駆け寄ってくる。
「だめだよ、定着してないかもだから、しばらく安静」
「定着……?」
「そう。もう、君はほんっとに……」
む、と頬を膨らませて怒ろうとして、しかし眉を下げてわずかに渋面になる。
「あのね、無茶しすぎ。自分が何したか覚えてる?」
「え、それはもちろん……」
「杖で自分ごと串刺しにしたことも?」
「はぁ、一応」
「『はぁ』じゃないんだよ! もう、ほんとにあれで死んじゃうところだったんだからね!!」
「ふひゃい……」
祐司はけっこう勢いよく頬を引っ張られた。
確かに、脇腹といえど腹に何かを貫通させたら、普通ただでは済まない。
「あのね、あの杖は特別製なの。前も言ったよね、クロト先生の経験も力もみっちり詰まってる。杖に見えるけど、ほとんど魔力の固まりみたいなものなんだよ。
だから確かに、「影渡り」は消し飛んだ。
……君の脇腹と一緒に」
「へ!?」
「消し飛んだ。君がそう唱えたからね。"消え去れ"って」
「じゃ、じゃあ、なんで今さして痛みも感じてないんでしょう……?」
「担当者さんに治してもらったの! だけど、自然にある魔力を集めてくっつけてるところだから、あんまり動くと取れちゃうよ?」
「取れちゃう……?」
「脇腹が」
「取れちゃう――……」
「だから、おとなしくするように。安静第一、体育もしばらくは見学だからね」
「はい……」
「まったく――」
持っていた袋を近くのテーブルに置き、丸椅子を持ってきて、ひなたはベッドの隣に座った。
だが、怒っていたはずなのに、
「……えーっと、」
そうひなたはめずらしく、話題を選ぶように言った。
「ところで、さ、ゆーじくん」
両手の指を組み、人差し指を少しとんとんと合わせる。
そして、すっと息を吸って、尋ねてきた。
「――寝てる時、すごくつらそうな顔してたけど……。
なんか、夢でも見てた?」
見られていた。思わず息をのむ。
祐司はうつむき、薄い上掛けに視線をさまよわせた。
「……えっと」
そのまま、時間を稼ぐようにひなたに問う。
「俺以外に、怪我人はいませんか?」
「大丈夫。みんな仕事を果たして、無事帰途につきました」
「……父は、あれから?」
「特にはなにもなかったよ。同じく帰っているところだと思う」
「そうですか……」
青色の目が一瞬揺れた。
部屋に沈黙が落ちる。
「……聞いてもいい?」
「夢……ですか……?」
「ううん、そうでなくても。いま君が、思っていることを」
「――――」
祐司は
夢の話。
何度も見る夢。
けれど、それは「夢」ではなく「ほんとう」の話。
もう聞き慣れた静かな言い合い。
それから、テーブルを挟んで沈黙する両親。
「――それで、父と母が話をして、決まったんです。
で、まあ家庭はおしまいになりました、終了です」
俯いたまま祐司は笑った。
「俺は、だから……」
「……どこか遠くに、行きたい?」
引き取るように、祐司の言葉をひなたが言った。
ぱっと視線を向けると、真っ直ぐな新緑の瞳にぶつかった。
同情でも、憐憫でもなく、ただ深く、こちらを見つめている。
「言ってたよね。家を出て遠くに行きたいって。覚えてるよ。ちゃんと覚えてる」
「…………」
「君は、――『ひとり』に、なりたいんだね」
気づかれたくなかった。
隠していたかった。
だって、知られてしまったら。
「……それを選んで、つらくなかった?」
――傷つくとはどういうことだったか。
――哀しみとはどんなことだったか。
ひなたの瞳は強すぎて、祐司は視線を外した。
「……俺は、平気ですよ」
そうだ、そう言えばいい。
踏み込んできたものにはずっとそうしてきたはずだろう。
「……自分で選んだんですから、ちゃんと慣れました」
なのに、笑おうとして、しかしなぜだかうまくいかない。
ひなたが祐司の右手を取った。
「ゆーじくんは傷ついたんだよ。いろんな言葉にも、態度にも、選択にも。
それを君はひとりで全部背負ってる。親御さんから受けた痛みも、ひとりになるって決めた痛みも、全部。
ほんとは、『どこか遠くに行きたい』くらい、――『ここにいたくない』くらい、つらかったのに。何かを与えることは、傷つくことだと思うくらい。
だから、君はあきらめを選んだ。仕方がないって思い込んで、ひとりになることで」
ぎゅっと、ひなたは両手で祐司の右手を握った。強く。
「お願い、心が傷つくことを、あきらめないで。そんなんじゃ君の心が死んじゃう。
痛いなら、苦しいなら、つらいなら、誰かに助けを求めていいんだ」
「――誰かって、……誰にですか?」
静かに、祐司は言葉をこぼした。
「ひなた先輩。
誰に、言えばいいんですか」
俯き、表情を失う。
「俺は――――ひとりだ」
だから声はどこにも届かない。
「――だったら。
だったら私が、その最初のひとりになる」
強く、その言葉は胸を打った。
視線が合う。
祐司を見つめる瞳は、きらきらと黎明の光を返す。
「――君の声を聞く、さいしょのひとりが、私だ」
細かい理屈も、ちいさな矛盾も、吹き飛ばすように。
「さいしょのひとり」
「そうだよ、祐司くん」
「……――俺は、でも、そんな……」
「いいんだよ、私が、君のさいしょのひとりになりたいだけなんだ。
――いま、そうわかった」
ひなたはやわらかく笑うと、瞳を閉じ、額に握りしめた二人分の手を当てた。
「君がひとりなら、私は最初のおとないになる。
そして君に言葉をかける。"ゆーじくん"と。
君は、気が向いたら私に応えてくれればいい。
でも、私はあくまでさいしょのひとり。その後は、どうなるかわからないからね?」
そんなことを言い、ひなたは両手を解いた。
「ねえ、ゆーじくん」
「はい、ひなた先輩」
二人は視線を交わす。
「……聞いてもらえますか」
「もちろんいいよ、なに?」
小首を傾げるひなたの姿に、祐司はふっと息を吐いた。
ため息ではなく、微笑みに近い息を。
「――将来のために、勉強を見てくれませんか。部活の間にでも」
「いいとも!」
ひなたは微笑んで頷き、小指を差し出してきた。
「じゃあ、約束しよう?」
「…………」
祐司は戸惑うように間を置いてから、それに自分の小指を絡めた。
「よしよし、一緒に勉強しようね」
「はい、先輩」
「それからね、ゆーじくん、よく聞いてほしいんだけど」
「……なんでしょう?」
ひなたは瞬き、こちらを見つめる。
「あのね、私は確かにすーぱー『委員長』だけど、残念ながら、まだちょう完璧ではないし、人間として十六年しか生きてない。
だから、今後、言葉を間違えることも、君を傷つけることも、ケンカすることだってあると思う。
――それでもね、君が、おなか出して寝てないかなぁって、ときどき心配するから」
突然よくわからない心配が挟まった。
「……お、おなか、ですか?」
「そう、その掛け布団を直してあげられたらいいのに、って思うってこと」
ひなたはそう言うと、優しく目を細める。
「だから、ちょっとは、おなか出して寝ないように、きちんと寝てね。
忘れてるかも知れないけどさ、私と君って、学校公認のコイビト同士なんだから」
「え!? 今それを……!? いや、そうじゃなくて……」
一体何に回答したらいいのかわからず、祐司は考えあぐねて、
「――とっ、ともかく、鋭意努力、します」
「うん、信じる」
ぎゅっと、つないだ小指に力がこもった。
「ゆびきり。君の勉強を、君自身を、ちゃんと見続けるよ」
「はい、お願いします」
「決まりだね」
「決まりですね」
二、三度ふたりは腕を振り、自然とその小指は離れた。
開かれた窓から、ふっと風が吹き、二人の制服を揺らした。
朝日が昇ろうとしている。
ひなたを照らす光は金色。
まばゆく、長い髪に宿り、その名の通りひとを温めるもの。
「――先輩は、夜明けのようなひとですね」
「わお、すごい、ころしもんくだ」
「えっ、いやっ、その、そう思ったからというか先輩の制服姿は最高だなというか……」
「ブレないね、君。まったく……」
ひなたはしょうがないな、と微笑み、言葉を続けた。
「これから、ひとつひとつ、教え、覚え、それから共有していこう。
魔法の使い方も、その
「はい」
頷くとひなたが手をのばしてきた。
優しく、くしゃくしゃと祐司の髪を撫でる。
「あ、あの?」
「まずは、このへんから」
「……??」
「今すぐわからなくても良いけど、もうしばらくしたらわかってね」
「えと……はい、了解です……?」
金色の光は空を染め、夜を青空へと変えていく。
「じゃあ、とりあえず朝ごはんにしようか」
「買ってきてくれたんですか?」
「うん、魔力は体力にも依存するから、ちゃんと食べないとね」
「怪我も治るでしょうか……?」
「もちろんだとも。さあ、このスパムおにぎりを食べるのだ。照り焼きたまごサンドも、白あんぱんも、ツナマヨおにぎりも君のものだよ」
「あ、ありがとうございます……」
「好みがわからなかったから内容はめちゃくちゃなんだ!
だから、まずは好きなものを教えてほしいな。これから」
「はい、これから、ちゃんと」
――消えない傷痕が、さめない夢が、ここにある。
そして何度でも朝は来る。
それが希望なのか絶望なのかは、まだ決められないけれど。
つややかな金色の髪に、白い襟とブルーラインのセーラー服。
ベッドに立てかけたホウキ。しあわせそうにサンドイッチを頬張る姿。
その瞳と目が合うと、はい、と微笑んで次のおにぎりを渡してくれる。
祐司は、ただここに存在している事実たちをかみしめた。
ひなたに、できるうる限りのことをしよう。していきたいと思う。
そうできる距離に居たい、そうできる自分でありたい。
――だったらまずは、勉強を教えてもらうところからだ。
図書室でひなたと居ることを想像すると、自然と頬がゆるむのを、祐司は自覚した。
それは、闇の中、不意にともった柔らかな"灯り"のようだと、祐司は感じた。
窓の外、朝焼けは
二人の朝は、そうして新しい今日をはじめていく――。
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