5.手を繋いで歩きませんか?-8
無機質な声だった。
鉱物や金属と会話する事が可能ならこのような声を聞けるのではないかと、そう思わせる音。
人の手で登る事の出来ない山脈、前人未踏の大森林、辿り着けない海底、灼熱の溶岩流、立ち向かう事を許さない大嵐――それらを前にした時に感じるだろう人類としての根源的な恐怖を、ランヴァルトはたった今感じた。人の手ではどうする事も出来ない。なんの影響も与えられない。ただの飲み込まれて、蹂躙されるだけ。それを様々と理解させられる。
箱の中で飼われていた存在にとって、この状況はあまりに悲惨だ。
立ち向かえない、目の前に立っている事すら辛い、呼吸が浅くなって行く。初めて会話したあの日から、ずっと自分に優しくしてくれたエルヴィーラを怖いだなんて思いたくないのに。
悲鳴を上げないのが奇跡的な状況。その変化は、エルヴィーラの後ろで起こった。
(……えっ)
いつの間にか。エルヴィーラの後方――ランヴァルトにとって前方に、ヴェルトがいる。しかめっ面でいかにも「厭だ、気に入らない」と云わんばかりの顔だ。
ヴェルトは絵描きが好んで使いそうなスケッチブックを持っている。それを広げて、掲げた。
スケッチブックには一言、黒いクレヨンでデカデカと文字が書いてある。
――宿題。
「……あ」
昨日、考えろと云われた事。何故エルヴィーラの求婚を受けたのか。それを今云えとヴェルトは主張していた。
どうしてこのタイミングなのか、ランヴァルトには分からない。けれど彼が云う以上、今が最善なのだろうと判断した。
改めてエルヴィーラの目を見る。無機質な黄金の向こうに、感情の色はなかった。けれど虚無とも違う。恐らく
「エルヴィーラ、さま」
「はい」
応答はあった。
こちらの言葉を聞いてくれるのだと判断する。
拒絶はない。拒否はない。途方もない許容があった。
「聞いて頂きたい事が、あるんです」
「なんでしょう」
瞬きもせずにエルヴィーラは、こちらを見つめてきた。目を逸らす事を赦さないと云うよりも、ただ彼女が見たいから見ているだけだと感じる。
灼熱の太陽を思わせながら、それでいて温度を感じさせない無機質な瞳へ、ランヴァルトは語りかけた。
「……僕の為にたくさんお金を使って下さった事、とても有り難く思っています」
本当だ。申し訳ないとか、勿体ないとか、どうしてと云う不安、そう云った気持ちも強かったが、何よりも嬉しく思う。
「僕は、本当に価値のない男です。拠りどころは血統だけ。他に何もありません。血筋だけでなく実力も重んじるようになった我が国において、僕は貴女のような素晴らしい女性に相応しくない男なんです」
エルヴィーラが令嬢の身でありながら、国家が束になっても敵わない財を成した事。その影響力は計り知れなかった。フロード王国から男尊女卑の概念を薄れさせたのもエルヴィーラの力だ。
男が「女のくせに」「女が生意気だ」と云ったところで、彼女の財には誰も勝てない。すると多くの女性は男に云った訳だ。「貴方は女を莫迦にするが、ならばエルヴィーラ様に勝てるのか」と。
その一言に男たちは一斉に黙り込んだ。勝てないのだから、反論のしようがない。したところでみっともない負け惜しみとして扱われ、笑いものにされた。ならば倒してみせようとエルヴィーラへ挑んだ男たちは、身を滅ぼして姿を消して行く。あらゆる分野において誰一人として、エルヴィーラより優れた男はいなかったのだ。
世界最強の一角を、誇張表現なしで担っている女性。世界へ与える影響力ならば、間違いなく頂点に座す人。
それがエルヴィーラ・クラース・フォン・ラーゲルフェルト侯爵令嬢だ。
何度でも云う。ランヴァルトにエルヴィーラは勿体なすぎるのだ。
「……それでも、僕は、嬉しかった。貴女が僕を選んでくれた事。夢を見ているんじゃないかって……この半月の間の出来事は、都合の良い夢なんじゃないかって、そう思ってしまうくらい……」
先ほどまで組んでいたエルヴィーラの手を取る。絹の手袋の感触が、サラサラと気持ちよかった。
大きさはランヴァルトより小さい。女性の手だ。多くの魔物や人を打ちのめしたとは思えない、貴人の美しい
「貴女は……僕の
コトリと、絡繰り染みた動きでエルヴィーラは首を傾げた。ランヴァルトの言葉がよく理解出来ないと云っているような動き。
精一杯の笑みを浮かべ、ランヴァルトはずっと思ってきた事、大切に胸へしまい込んできた言葉を口にした。
「僕は……本当に何も出来なくて……現状維持にしがみついて、これ以上の失敗を重ねる事を恐れていました。名ばかりでも公爵であれれば善い、と……。そんな僕にとって貴女は、絵本に出てくる英雄のような存在だったんです。エルヴィーラ様が新しい発明をした、特級の魔物を討伐させた、新たな通商契約を結んだ、貧困に喘ぐ人々を救った……そうした話を聞く度に、僕は胸を躍らせていました。子供のように、すごい、カッコいいって、ただ憧れて……。式典や遊宴へ参加した時、遠くから貴女を見る事だけが楽しみでした。胸を張り肩で風を切って歩くエルヴィーラ様は、僕が理想とする姿そのもので……貴女を見るだけで、まだやれる、もう少し頑張ろうって、思えたのです」
「……」
人々へ勇気を与えるもの。希望を見せる存在が英雄だと云うのなら、エルヴィーラは間違いなくランヴァルトにとって最高の英雄だった。物語の主人公。幾多の困難を乗り越えて、明るい未来を示す存在だ。
本来ならランヴァルトは、エルヴィーラの物語に参加する資格がない。背景にだってなれない。絵の外側にいる、その他大勢以下の存在。それなのにエルヴィーラは突然画面の外側へ走り込んできて、ランヴァルトの手を取ったのだ。
どのような宝飾品すら霞むような美貌に、とびっきりの笑顔を乗せて。世界最高の指輪を用意して。誰にも文句を云わせないとばかりに、堂々と求婚の言葉を放ってくれた。
「重苦しいだけの現実で、エルヴィーラ様だけが、貴女の存在だけが、僕の救いだったんです」
両手で強く、エルヴィーラの右手を握る。
どうか届きますように。分かってくれますように。この言葉は、嘘でもその場しのぎでもない、本当の事なのだと知ってくれますようにと、祈りながら。
「貴女が……ずっと、好きでした。憧れるだけの幼稚な恋を、貴女にしていました。絶対に叶わないと、夢に見ることさえなかった。貴女に、選んで貰えるだなんて……」
見ているだけでよかったのに。側にまで来てくれて、ランヴァルトのためにあらゆる手を尽くしてくれて、それを喜んでくれないのかと云ったエルヴィーラ。
これが現実だなんて信じられないくらいに、ランヴァルトは幸せだった。
「……僕は、貴女にお金を使って貰った事が嬉しいんじゃないんです。僕の為になるように考えて行動してくれた、エルヴィーラ様の気持ちが、嬉しいんです」
母には置いて行かれた。父には必要とされなかった。祖父と伯父にとっては同情の対象だった。他の親族からは厭われた。
友人はアルヴィド一人だけ。彼はランヴァルトを大切に扱ってくれたけれど、
意固地になって、ただ一人寂しいと泣いていたランヴァルトの元に、エルヴィーラは来てくれた。絵本の英雄が現実へ飛び出してきて、救ってくれたのだ。
それがどれほど嬉しい事か、分かってくれるだろうか。そして、どれほど不安になったかも、理解して貰えるだろうか。
「……僕は、貴女が好きです。でも、僕は……貴女に好かれるようなところが、何も無いんです」
改めてエルヴィーラの目を見る。
瞳の奥が、チカチカと明滅しているような気がした。黄金の眼が、揺らいでいるような。
「……貴女は、どうして、僕を選んでくれたのですか?」
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