5.手を繋いで歩きませんか?-9
「―――」
それは沈黙と云うより静寂だった。風の音も草木のざわめきも消えた。まるで自然の全てが、エルヴィーラに遠慮しているようだ。
音も無く――芝生を踏みしめる音も、布ズレの音すらなく、エルヴィーラが一歩、ランヴァルトから離れた。扇子を広げて顔を隠してしまう。近付く事は
拒絶されたのではないと、何故かランヴァルトは理解する。エルヴィーラは今、ものすごく一生懸命考えているのだと。自分の事で手一杯になるほどに。
「……――私、は」
声は掠れていた。小さな声。そよ風の音一つで消えてしまいそうな。
云うべき言葉を、悩んでいる。云ってよいのか、迷っている。
それを感じ取ったランヴァルトは、ただ待った。どのような事を云われても受け止められるようにと、腹に力を入れて。
「あなたを、ずっと探していた」
「……僕を?」
探す、とはどう云う事だろう。
もしやランヴァルトの記憶違いで、ずっと昔に実は会った事があったとか、そう云う話なのか。
「……三年前の十一月九日、王妃殿下主催の夜会の事を、覚えておいでか」
「え……っと。はい、参加した事は覚えています」
我が国の王妃、ランヴァルトの祖母は茶会や夜会などを開く事がお好きな方だ。
フロード王国の貴婦人たちが近隣諸国の中でもとびきりお洒落だとか、流行を追うのが早いと云われるのは、常に流行の最先端を行くエルヴィーラの存在もあるが、この影響も大きい。王妃が主催する会へ、適当な格好で参加など出来ないからだ。
ランヴァルトも立場柄、参加頻度は高い。とは云っても顔を出して挨拶をしてアルヴィドが居れば話し、エルヴィーラの姿を見たら帰っていたけれど。肩身が狭すぎて。
「私は……美辞麗句を腐るほど云われて来ました。老若男女から、ありとあらゆる賛辞を受けました。それらの事を記憶し、単語登録をしていたけれど、どれも…………心に残る、耳から離れない、頭にずっと響いている、などと云う事は、なかった」
さもありなん。エルヴィーラほどの女性ならば、本当に掃いて捨てるほどの褒め言葉を注がれて来たに違いない。
数多の吟遊詩人から歌を捧げられ、オペラから活劇、人形劇まで幅広く、彼女をモデルにした演目が作られ日夜公演されている。
エルヴィーラにとって褒め言葉など、毎日食べるパンよりお手軽に入手出来るものだ。
「三年前の夜会で聞いた、たった一言。恐らく、何気なく云った言葉でしょうに、それがいつまでも、いつまでも……忘れられなかった」
ミシ、と軋む音がした。扇子を持つエルヴィーラの手に、力が入っている。
あの豪奢な扇子、森の国シルワで採れる『万年胡桃』から作られた特注品だと聞いたけれど。あの世界最高硬度の木材が軋むのか。トン単位の圧が掛かっても音一つ立てないとの触れ込みなのだが。
ちなみに切り出し方、加工方法などはシルワの国家機密なのでランヴァルトは知らない。
「――『エルヴィーラ様は、今日もカッコいいな』」
「えっ……」
その言葉を、ランヴァルトは云った事がある。
ある、どころではない。エルヴィーラを見かける度に、独り言、あるいはアルヴィドやルーカスへ同意を求めるために云っていた言葉だ。二人はいつも「また始まった」と苦笑しながら頷いてくれた。
「聞いた直後は……何も思わなかったのです。ただの記憶へ振り分けられ、登録されただけの言葉。普段から云われ慣れている言葉。特に意識も注意も払うべきでない、ありきたりな言葉。それなのに……何度も思い出しました。ふとした時に、その言葉と声が頭に浮かんだ。なぜ幾度となく声が蘇るのか、疑問に感じたのです。そうすると誰が云ったのか気になった。記憶を掘り起こし、声紋を照合して、フロード王国の催事中に稀に聞く声だと分かって……それから自国で開かれる会にはなるべく参加するようになりました」
云われて思い出す。確かに三年前の冬頃から、エルヴィーラの参加頻度が増えていた。それまでは他国へいる事も多く、自国内の催事には必要最低限しか参加していなかったのに。
当時のランヴァルトは、たまにしか見られなかったエルヴィーラの姿を頻繁に目撃出来るようになって、単純に喜んでいたのである。
それがまさか、たった一言の呟き、声の主を探すためだっただなんて。
「そうして半年かけて、その声の持ち主が……あなただと分かりました。名前は存じ上げていました。存在も、どう云った人であるかも、噂で。……そこで私は躊躇しました」
「躊躇……」
それは、ガッカリしたのだろうか。
探していた相手が、取るに足らない爪弾き公爵だと知って。
「私は私の力を正しく把握しています。私の財を求める人々がどう云った存在であるかも、知っている。彼ら彼女らをカテゴリー分けした場合、外道、下衆、人でなし、などと云う、自己の欲求を満たすためなら他者を平気で害する者たちになるのです。そのような連中に、私があなたに興味を抱いていると知られたらどうなるか、理解していた」
「それは……」
エルヴィーラの云う通りだ。何度でも云うが、ランヴァルト自身に価値などなくとも、“エルヴィーラの婚約者”にはとんでもない価値がある。
彼女の伴侶に収まれば、世界一と謳われる財を自由に使えると思っている輩は多いらしい。ランヴァルトは恐れ多くて出来ないが、「友人を招きたい」の一言で大国の王族クラスの茶席が用意された経験を思えば、的外れな思想とは云い切れなかった。
国王が云っていたように、エルヴィーラの持つ財は人を容易く狂わせられるのだ。目も眩むような財貨は、人を簡単に狂気と凶行へ走らせる。
人の命を塵芥同然だと思うような狂人へ、変貌させてしまう事もあるのだ。
「よくて拉致、悪くて殺害。そのような事、許せなかった。けれど私とあなたは決して親しいとは云えない間柄。私自身があなたを拉致する事も考えましたが……人の法の下に経済を回している私としては、犯罪を起こす事は
「正攻法……?」
「二年。二年かけて、あなたの周囲へ根を張った。世間へ知られないように、業界に分からないように、人類が気付かぬように。これまでの経験値全てを使って、あなたを安全かつ平穏に取得出来るようにしたのです」
(取得……)
ところどころ言葉の使い方がおかしい気がしたが、些細な事だと横へ置いた。
気にするべきはそこではない。
二年もかけて、エルヴィーラは準備をしていた。全世界へ影響を与える自身の力を自覚して、決してランヴァルトへ害が及ばぬようにと。
自分のせいでランヴァルトが辛い思いをしないように、気遣ってくれていたのだ。
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