4.夜の逢い引きはまだ早い。-2
「は、」
「具合でもお悪いのですか。侍医を呼びましょうか?」
「え、いや、エルヴィーラ、様?」
「エルヴィーラですが」
目の前のエルヴィーラ首を傾げる。ランヴァルトは呆気に取られながら、彼女の頭から足下までをじっくりとっくり眺めてしまった。
――エルヴィーラである。左右対称の美しい顔立ち、輝く黄金の目、しっとりと濡れ下ろされた鉄紺の髪、ほんのり赤い白磁の肌。
どう見てもエルヴィーラである。服装はランヴァルトと同じ絹の寝間着で、これから就寝までのんびりする予定だったのか、ショールを一枚羽織っていた。
絹の寝間着――女性用だから、ネグリジェと云うべきか。濃い青色のそれは、ぴったりと彼女の肉体に添っている。普段着ているドレスも体のラインに合わせたものだが、それとは違う。体の凹凸が、薄く柔らかな絹地の形を変え、特に胸元をこれでもかと主張していて、
「――見てませんッッ!」
「ランヴァルト様?」
「僕は何も見てませんから!」
うっかり通信機を放り出して――無意識か、ちゃんとベッドの方へ投げていた――、両手で顔を押さえてランヴァルトは叫んだ。
何故テンペスト帝国へ出張中のエルヴィーラが、ランヴァルトの寝室に居るのか。その疑問すら吹っ飛ぶほど、ランヴァルトは慌てた。幻覚や夢ではなく、確かにエルヴィーラが目の前にいる。しかして、湯上がり後のしっとりとした艶めかしい姿をまじまじと見る事など出来ようか。
「すみません、驚かせましたか。ランヴァルト様の様子が普段と違いましたので、気になりまして。テンペスト帝国から飛んできたのです」
「と、飛んできた……?」
「転移術です」
「あ」
間抜けな声が出る。
魔導通信機に続くエルヴィーラの三大発明品は、転移魔導陣だ。遠く離れた場所を一瞬で繋ぐ、夢の技術。本来なら魔術・魔導に精通し、魔力も豊富な特級の術者でなければ使用出来ないものだが、エルヴィーラはそれを魔導へと落とし込んだ。奇跡の魔術と呼ばれた転移術を、魔力と金さえあれば誰でも使える魔導陣にしたのだ。
あの時は、本当に世界が引っ繰り返ったのではないかと思うほどの衝撃を受けた。聖地すら「あり得ない」と悲鳴を上げたと云うのだから、凄まじい話だ。
魔術を魔導へ落とし込む為には、その魔術を深く理解していなくてはならない。当然ながらエルヴィーラは、単独で転移術が使えた。しかし王侯貴族の住まいには、転移術を弾く術式が組み込まれている。そうでなくては貴人は常に、転移術使用者の暗殺に怯えなくてはならないからだ。
だが、その転移術防止魔導陣を作ったのも、エルヴィーラな訳で。
「…………エルヴィーラ様に出来ない事ってありますか?」
思わず出た言葉がそれだった。子供みたいな質問だ。
「それなりにありますが、人類が想像出来る範囲であれば実行可能だと自負しています」
「すごい」
もうそれしか云えない。ランヴァルトなんて、出来ない事だらけなのに。
顔を押さえたまま俯いて、ついでに背中も丸める。よく考えなくても、寝室で二人きりだ。未婚の男女が。しかもお互いに風呂上がり姿で。いくら婚約者同士とは云え、いや、婚約者だからこそこれはよくない。マナーに反する。世間から「はしたない」と思い切り顔を顰められる事態だ。
どうしよう、どうするべきか。エルヴィーラはランヴァルトの様子が変だと気にして、わざわざ来てくれたのだ。はしたないから帰ってくれだなんて、絶対に云えないし、云いたくない。彼女の姿を直視出来ないし、恥ずかしさと照れくささで卒倒しそうだが、それと同時に嬉しくて堪らないのだ。
転移術を使えばテンペスト帝国からランヴァルトの元まで一瞬だろう。それでも、かなり大量の魔力を消費する。これからゆっくりする所だっただろうに、出張先で気疲れしているだろうに、ランヴァルトの為に来てくれたのだ。
アルヴィドの言葉を思い出す。お前の為にそこまでしてくれる女性は、二度と現れないと。その通りだ。こんなにもランヴァルトの事を想って行動してくれる女性は、エルヴィーラしかいない。世界中どこを探したって、異世界にだって、エルヴィーラ以上の女性なんているものかと、ランヴァルトは本気で思った。
何か云わなくては。そうだ、まず感謝を伝えなくては。混乱しつつなんとか思考を収束させたランヴァルトの耳が、至近距離、すぐ隣りでベッドが軋む音を拾った。
え、と驚きのままに顔を上げ音の方を見れば、エルヴィーラが居る。エルヴィーラが、ランヴァルトの隣りに座っていた。
「――……」
「お顔の色がわる……いや、血色が良いですね。血の巡りに問題はなさそうで」
「ほああああああ?!」
「うわっ」
驚きのあまり変な雄叫びを上げてしまう。宜しくない。とても宜しくない。風呂上がりでネグリジェをまとった女性が、男の座るベッドの隣りへ腰を下ろすなど。絶対に宜しくない。駄目な奴だ。
文字通り泡を食ったランヴァルトは無意味に手をわたわたさせると、そのままベッドから滑り落ちた。珍しく、エルヴィーラも驚きの声を上げているが、ランヴァルトの方がその百倍は驚いたと自信を持って云える。
もう照れ臭いやら恥ずかしいやらみっともないやら惨めやら、あらゆる感情がぐっちゃぐちゃになった。もう勘弁してくれ、と云う奴だ。
起き上がる事も出来ず、床に倒れたまま顔を押さえ、ぷるぷる震えるしか無い。悪いスライムでは無い。情けない男が一匹いるだけである。
「え、エルヴィーラさま……」
「何ですか、大丈夫ですか、医者はいりますか?」
「大丈夫じゃ……ないですが、医者は、いりません……。なんて云うか、もう、勘弁して下さい……」
「何事ですか」
「……あの」
「はい」
「とても、感謝しているんです……」
「はい?」
「僕なんかを、心配して、テンペスト帝国から、転移術でわざわざ、来て下さって……」
「はい」
「でも、駄目です」
「駄目ですか」
「その格好と、ベッドへ腰掛けるのは、いけません……!」
「どんだけ情けなくとも自分は男で、どれほど優秀でも貴女は女性なのですよ」とまでは云えなかった。なんだか凄く情けなくて、場違いな発言に思えたからだ。
現状を見れば正しい。正しいと思う。けれど、なんか違うと思えてしまった。エルヴィーラ相手にランヴァルトはケダモノになれる訳がない。しかし、強い好意を持って慕う女性が湯上がりの寝間着姿で自分のベッドへ腰掛けるなど、刺激が強すぎた。直視したら死ぬ、くらい脳へダメージがある。
それをどうにか伝えようと、息も絶え絶えに云ったのだが。
「ほう」
どこか面白がっているような響きの、声が返ってきた。きし、と小さくベッドが軋む音。それから床へ仰向けになっているランヴァルトの体の上へ、確かな重みと柔らかさ。特に胸、いや鎖骨のあたりに、ずっしりと重量がありながら、それでいてもっちり柔らかい物が乗っている。
花の蜜に似た、甘い香りがした。
「……え」
ついうっかり、顔に当てていた両手を外して、目を開いてしまった。
そうして目の前――息が掛かるほどの至近距離に、エルヴィーラの顔がある。劫火の瞳が、きらきら光って、ランヴァルトを見ていた。
化粧をしていない、エルヴィーラの顔である。
派手な美人は化粧を落とすと地味顔などと云う話を聞いた事はあった。それ、嘘でしょうと、今のランヴァルトなら云える。常にアイシャドウばっちり、隙の無い完璧な化粧をしているエルヴィーラは今、すっぴんな訳だが。
バッサバサの睫も、印象的な瞳も、毛穴の見当たらないすべらかな肌も、血色の良い頬と唇も、何もかもが眩しく美しい。世の女性が嫉妬で憤死しませんか、と云わんばかりの、輝く
「え」
「お可愛らしいこと」
「え」
「あまり愛らしい事を云わないで頂きたい。……これでも、我慢しているのですから」
エルヴィーラが、ランヴァルトの上に乗っている。服越しとは云え、ぴったり密着して。楽しげな表情で、ランヴァルトの顔を上から覗き込んでいた。
つまり、鎖骨に当たっているずっしりむっちりしたものは。
「―――っ?!」
瞬間的にランヴァルトはパニックになった。声にならない悲鳴を上げたし、体は震え上がって脳髄が軋んだ幻聴を聞く。
心の空き容量が完全に無くなった。猫に追い詰められたネズミの方がまだ冷静なのでは、と云うレベルだ。
首から上へ血が集まって、顔が熱い。耳の奥で血流の音がごうごうと鳴っていた。
エルヴィーラの手が、ランヴァルトの頬を撫でる。「ミ゜」とまた変な声が出た。
「人のルールは細かくて面倒で無意味なものが多いと思いませんか」
微笑みながら、エルヴィーラが云う。初めて見る笑顔だ。慈悲に溢れた淫蕩な笑みとでも云うべきか。
「誰かの体裁の為の、どうでもいいルールがとても多いのです。あれはいけない、これははしたない、それはダメ。下らないにも程がある。いくら人類が弱者で、ルールに沿っていなくては集団的生存が困難とは云え、無駄に無駄を重ねて意味を失っています。婚約期間など最たるもの。貞淑? それが何の役に立つのです。人類が生命である以上、種の保存の為に生殖活動は不可避でしょう。ホムンクルスのようにフラスコで育つならまだしも、人類は母胎で育まれるしかないのですから」
「はぇ……」
ランヴァルトの脳みそはもう役に立っていない。なんかむずかしいこといってる、くらいしか理解出来ていなかった。
「しかし、無駄ではない所もあります。必要性の高いもの、必然性があるもの。そう、既成事実とやらを作ってしまえば、不合意の相手でも自分のものに出来ると云うのは、中々に合理的で面白い理屈です。その概念を作り育てた奴らは心底莫迦だと思いますが、役には立ちます。莫迦とハサミは使いよう、と異世界の言葉にあるそうですが、なるほどなるほど。異世界人は上手い事を云います。無駄なルールも利用法次第で役に立つのです」
ランヴァルトは「あれ?」と思った。なんと云うか、上手く言葉に出来ないが。ものすごく不味い状況な気がする、と。
「あなたの不安も、困惑も、迷いも、全て喰べてあげましょう。大丈夫。何も怖くないですよ。……目を閉じていれば、すぐに終わりますから」
もはや彼女にとって、ランヴァルトは完全にただの獲物に成り下がっている。
それに気付いてしまったが、今の状況で出来る事があるのか。エルヴィーラをはね除ける事すら、ランヴァルトには出来ない。布越しでも触れられないと云うのに、どうすればいいと云うのだ。
近付いて来るエルヴィーラの顔を見つめる事しか出来ず、完全に思考能力が死んでいる。蛇に睨まれた蛙ってこう云う状況を云うのか、などと変に冷静な脳の一部分が考えていた。
――ある種、絶体絶命のピンチをランヴァルトは迎えていたが、それはいとも容易く終了を迎える。
「ねー、ちょっとだんなさまぁ。あの小母さんうっせーんだ、け、ど……」
「ヴェルト! いけません! ノックくらいなさ、い……」
ばーんと軽快に寝室の扉が開いて、ヴェルトとヘイスが入って来た。二人はランヴァルトとエルヴィーラの状態を認識すると、語尾を儚く消していく。
なんと云うか、第三者から見ても云い訳無用の状態だ。エルヴィーラを慕っている双子からすれば、目を覆いたくなるか悲鳴を上げる状況ではないか。
しばし、無音が空間を支配する。世界から全ての音が消えたと錯覚してしまいそうだ。
「……」
「……」
「……」
「……あのさー」
最初に声を発したのは、ヴェルトだった。苦虫をダース単位で噛み潰したような顔をして、エルヴィーラに向かって云う。
「姐さん……流石にゴーカンはねーわ。引く」
「血反吐吐くまでぶち喰らわすぞクソガキ」
ランヴァルトは正気になった頭で、「エルヴィーラ様、そんな低い声出るんですね……」と思った。
多分、考えるべき部分はそこじゃない。
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