1.貧乏公爵は幸せな夢を得られるか。-1

 ランヴァルトは震えそうになる体に叱咤を入れていた。これでも一応、公爵である。みっともない姿は見せられない。

 目の前には香り豊かな紅茶と茶請け。ケーキ、パイ、焼き菓子類、サンドイッチが控えめなサイズと量で品良く盛られている。ランヴァルトの独力ではまず用意出来ない品々だ。紅茶一杯で自分の一日分の食費と同額になりそうだと、胃がキュゥと切なく引きつった。

 テーブルの向こう側、ランヴァルトの正面には男が一人。幼馴染みの親友である。学園にも一緒に通った、竹馬の友だ。名をアルヴィド・フォン・ロヴネル。伯爵家の嫡男である。同い年ではあるが、彼はまだ爵位を継いでいない。当然だ。ランヴァルトが早すぎるだけである。まだ二十歳の公爵。「家に問題がありました」と公言しているようなものだ。


「いやぁ、驚いた。とにかく驚いた。俺の人生でここまで驚いた事ってないな、ってくらい驚いた」

「それは僕もだよ……」

「しっかりしろ、当事者。部外者の俺に同意してどうする」


 小ぶりなサンドイッチを手に取って、アルヴィドはぽいと己の口へ放り込んだ。貴族らしからぬ食べ方だが、彼にはよく似合っている。昔からこうなので、ランヴァルトも一々注意などしない。

 硬質な印象の真っ赤な髪に刃物のような灰色の目。野性味溢れる顔立ちだが、決して下品では無い。戦う男――騎士らしい精悍さがあった。鍛えられた筋肉は厚く、背も高い。誰もが目を引く色男、それがアルヴィドである。

 対してランヴァルトは、絵に描いたような優男だ。痩せこけてはいないが、無駄な肉をつける余裕も鍛える暇もなく、至って普通。顔だけは美の化身と謳われた母に似てくれたお陰で善いらしいが、中身が気弱なので宝の持ち腐れだと思っている。アルヴィドの男らしさの三分の一でも自分にあれば、と常々思っているが、現実になる日は来なさそうだった。


「それで? いつ結婚すんの?」

「半年後くらい……らしい……?」

「いやいやいや、なんで他人事なのお前。自分の事だろ?」

「現実感が全然ないんだよ……」

「まぁ、気持ちは分からんでもない」


 ため息まじりに、今度はクッキーをぽいと一口。好みの味だったらしく、アルヴィドの口元が綻んだ。そう云う顔は子供っぽい。ご婦人方に「格好いいのに可愛い」と好かれる要因だろう。


「エルヴィーラ嬢と云えば、我が国が世界へ誇る女傑。誰もが仰ぎ見る、世界一の大富豪だもんなぁ」


「やったな、玉の輿じゃん」と続けられ、ランヴァルトは苦笑い。狙ったわけではない。向こうが輿に引っ張り上げてくれたのだ。何故だか分からないが。


「もうエルヴィーラ嬢は結婚しないもんだと思ってたよ、俺。あの人、今年で二十五だっけ?」

「二十四だよ」

「やっべ。……間違えた事、黙っててくれ」


 若干顔を引きつらせたアルヴィドの気持ちは分かる。

 難しい年頃の女性に年齢の話は禁句。一年でも間違えれば睨まれるか足を踏まれるか。

 貴族の女性にとっての結婚適齢期は十五から二十歳、職業貴婦人なら二十三がギリギリのラインだと云われていた。二十四歳で未婚は、行き遅れだとか行かず後家だとか陰口を叩かれる世の中だ。

 が、当人やその身内に面と向かって云うのは流石に礼儀知らずである。アルヴィドの場合、本当につい何気なく云ってしまったのだろうし、ランヴァルトが相手だからと云う油断からだろう。こう云うちょっと抜けている所も、アルヴィドが愛される要素だ。


「いいけど。本人には云わないように気を付けてね」

「やっぱ気にしてるのか?」

「本人がって云うか……エルヴィーラ様は気にしてないけど、周りの人が気にしてるから」

「周り?」

「うん。秘書や執事の人とか、護衛の人とか。……うちのメイドがうっかり年齢について云っちゃって、なんか文句あるのかって凄い怒ってたんだ」

「あちゃー」

「エルヴィーラ様が取りなしてくれたんだけど……」


 あの時はランヴァルトも血の気が引いた。

 主の婚約者を悪く云うなどと、公爵家の使用人としてあり得ないのだから。


「うち……家令以外は公爵家の使用人として使えないって云われてしまったよ」

「エルヴィーラ嬢に?」

「エルヴィーラ様の秘書殿と執事殿に」


 エルヴィーラの側には、常に多くの人が居る。秘書、執事、侍女、護衛などなど。彼女の周りから人が消える事は無い。常時十人前後に囲まれている。

 その中で最もエルヴィーラに近く力を持っている女性の秘書と、初老で品の善い執事から、ランヴァルトは懇々とお説教されてしまったのだ。いや、説教では無い。公爵に説教が出来るのは同じ公爵か王族くらいだ。

 彼女たちとしては「お願い」だったのだろう。しかしランヴァルトには説教に思えてしまった。


「……うちが貧乏なばっかりに……いや、僕が情けないばかりに……」


 俯いて、肩も落とす。ランヴァルトは自分が情けなかった。

 グランフェルトは四代続く公爵家。その始まりは外交術に長けた王弟で、弟の才能を惜しんだ兄王が公爵位を授け、家臣として重用した事が始まりだ。

 二代目――祖父の代までは善かった。祖父は曾祖父から受け継いだ人脈を正しく扱い、外交関係で国を支えた重鎮だった。

 しかし父で躓いた。父には外交術を学ぶ忍耐も、受け継いだ人脈を生かせる人格も無かったのだ。

 父がランヴァルトのように気弱だったらまだマシだった。能力もない癖に自尊心だけは人一倍、いや三倍はあるような人間だったから悲惨な事になったのである。

 その辺りはランヴァルト自身思い出したくないし、周りの人も敢えて口にしない。未だに社交界ではネタにされているそうだが、ランヴァルトに直接云ってくる訳ではないので好きにしてくれ、と云う思いだった。

 そう云う、何年経っても笑い話のネタ扱いされる、どうしようもなくしょうもない人間がランヴァルトの父なのだ。悲しい。

 あんまりにも駄目な父だったから、王都から遠く離れた小さな領地へ送られて「二度とそこから出るな」と勅命を下されてしまった。王室にまで迷惑をかけて、ランヴァルトは王族の前でまともに顔が上げられない。

 救いなのは、王と王太子がランヴァルト個人には非常に優しく、親戚として目をかけてくれている事だろうか。他の王族には嫌われているが。仕方ない事だし、申し訳ないと云う気持ちしかわかない。


「せめて母上が居て下されば……」

「そうだなぁ。マティルダ様がいらっしゃれば、もうちょいこの家マシだったかもなぁ」

「……離縁しちゃったから……」

「つら」


 母は現国王の末娘で、王太子にとっては同腹の妹だ。花の妖精の如き美しさと気高さ、才媛と呼ばれて納得の頭脳と実行力を持ち、王室や民から愛されていた。ランヴァルトにとっても憧れの人である。

 その能力の高さを祖父に惚れ込まれ、どうしようもない父に嫁いで貰ったらしい。母のような人が側にいれば、父もマシになるだろうと云う周囲の考えもあった。

 しかし父は本当にどうしようもなかった。優秀な母に対してコンプレックスを拗らせて、マシになるどころか悪化した。自国の姫君に対して暴力や暴言こそなかったものの、ランヴァルトが生まれた後は完全に放置。母へ仕事を押しつけ、公爵家の金で遊び呆け、仕舞いには平民の女性へ入れ込んで子供まで作ってしまった。

 母と国王、王太子は当然激怒。祖父は平謝り。父は逃げ回り、謝罪すらしない。

 その結果、母と父は離縁した。当然だと思う。むしろよくそこまで我慢しましたね母上、とランヴァルトも唸るレベルだ。

 母は最後までランヴァルトを引き取ろうとしてくれたが、グランフェルト家の跡継ぎが居なくなってしまうため、離れる事を余儀なくされた。仕方ないと思う。ランヴァルトも父は嫌いだが、祖父は好きだし、曾祖父は尊敬している。自分の代で家を潰すのはあまりに忍びなかった。

 離縁した母は、異国へと嫁いで行った。王侯貴族にとって出戻りなど些細な事だ。ランヴァルトを産んでいる母は、子を産める健康で賢い女性として嫁ぎ先でそれはそれは大切にされていると云う。とても善い事だと思う。

 善い事だし、仕方の無い事。けれど現状を思うと、せめて母が家に居てくれれば……と思わずには居られない。人間とは、我が儘で現金な生き物だ。


「母上に戻って来て欲しいとは思わない。遠く離れても幸せであって欲しい。でも、我が家にまとめ役のしっかりした女性が居れば、もっとマシだったと思うんだ」

「一応居るだろ、お前。まとめ役の女性」

「ベック夫人の事を云ってるなら怒る」

「冗談、冗談だ。怒らないでくれよ」


 アルヴィドはケラケラ軽く笑いながら、両手を挙げて降参のポーズを取る。云ったのが彼だから許すが、他の人間が云ってたら一生根に持つ所だ。


「まぁ、しかし。お前もこれから大変だね。色んな地雷が周りにあるし」

「地雷って云わないで」

「事実だろ」

「事実だから辛いんだ」

「それもそうか」


 神妙な顔になったアルヴィドは手に取ったフィナンシェを半分に割り、片方をランヴァルトへよこした。彼は昔から半分こが好きなようで、割れる物は割ってランヴァルトへ渡して来る。

 別に拒む理由もないので受け取って口へ含めば、上等なバターと牛乳をたっぷり使ったフィナンシェは、しっとりほろほろ溶けて行った。これまで我が家で食べていたクッキーなどの焼き菓子とは一線を画する。あまりの美味しさに泣きそうになった。我慢したけれど。


「親父さんはまぁ、王都に来ようものなら斬首だからいいとして」

「よくない」

「悪い。……こっちから行かなきゃ関わんないって意味でだ」

「まぁ、そうだね」

「ベック夫人と令嬢の事は、早めに片をつけろよ。いくらなんでも、エルヴィーラ嬢に不義理だ」

「モニカとは何も無いのだけれど」

「知ってるよ。俺はな。でもラーゲルフェルト家や他の貴族はそう思わん。さっさと片付けないと、嫁の金で愛人を囲ってるなんて云われちまうぞ」

「うん……」


 厭な話題になってしまったと、思わず目をそらす。

 男と女の距離が近いと、すぐに恋だ愛だ痴情のもつれだと云われるのは何故なのだろう。

 ランヴァルトにとってモニカは妹だ。血の繋がりはとても薄いが、、女性として、結婚や恋の相手には全くと云っていいほど見る事が出来ない。でも世の中ではそうならないらしい。

 その乖離を世間知らずと云うのだと、アルヴィドから教わったランヴァルトは知っている。知っているが、「どうして」と云う思いが拭えなかった。


「……お前がさ、そう云う不誠実な男じゃないって、俺は知ってるよ。でもな、世の大半はお前の事を全然知らないし、知ろうともしないんだ。他人からの聞きかじりで、さも知った風な口を利く。手前の常識ものさしを持ち出して、その範囲へお前を落とし込もうとする。一族で無い女を家に置くって事は、そう云う下らん連中に餌を与えるだけだ。これまでと違って、お前は放っておかれない。貧乏公爵、地雷原男なんて陰口叩かれるだけじゃ済まないんだ。ランヴァルト、お前が幾ら厭がっても、聞きたくなくても、放っておいて欲しくても、無理な話になる。エルヴィーラ嬢と結婚するってのは、そう云う事だよ」

「うん……」


 ランヴァルトの逃げ道を塞いで、アルヴィドは云った。厭な話だ。けれど目を逸らしてはいけないし、瞑ってもいけない。

 このような話をランヴァルトに出来るのは、アルヴィドだけだ。他の誰が云っても厭味や侮蔑になる。友人だから、心配だから、彼はまっすぐこちらを見て云ってくれるのだ。

 それに対してランヴァルトは、感謝しつつしこたま落ち込んだ。ここまで云ってくれる友に、自分は何も報いられていないのだから。


「……裏切ってやるなよ、エルヴィーラ嬢を。お前にここまでしてくれる女性、もう二度と現れないぞ」


 アルヴィドが周囲へ視線を走らせる。ランヴァルトもそれに釣られた。

 ここはランヴァルトの家だ。王都に構えた、グランフェルト家の町屋敷タウンハウス。歴史はあるが管理が行き届いておらず、煤けていた。端的に云って、歴史があって大きいだけのオンボロ屋敷だった。お金が無くて、人手も足りない。ただ廃墟にならないよう必死に守っていた、それだけの場所。

 そのオンボロ屋敷がたった半月で、見違えてしまった。

 屋根や壁に開いた穴は丁寧に直され、目をこらしても修理箇所が分からないほど。ペンキも塗り替えられ、窓も透明度が高く頑丈な物が使われて、家を囲う壁も高く分厚く立派な物へ造り替えられた。家の中も美しくリフォームされ、家そのものの歴史を守りながらも住みやすくなった。家具は来歴確かなものは職人の手で補修され、買い換えられる物は全て新品に。人も増やされて、公爵家に相応しい白亜の豪邸へ生まれ変わった。

 そして今、ランヴァルト達がいる庭。見違えるどころではない。よそにあった格式高い庭をそのまま移築でもしたのか、と云うくらい様変わりした。

 公爵家の庭とは呼べない、ただ雑草を刈っただけの寂しい場所だったのに、今は季節はるの花々が咲き、動物の形に刈られたトピアリーや芸術的なオブジェが目を楽しませてくれる。ランヴァルト達がお茶会をしているのは、その庭へ拵えられた立派なガゼボの下だ。白い柱に円形のガラス屋根。今流行の形らしい。ランヴァルトはそんな事すら知らなかった。

 億単位の金をかけて、エルヴィーラはグランフェルト家の屋敷を生まれ変わらせてくれたのだ。ただの婚約者の行いではない。慈善活動でも無い。彼女は確かに、ランヴァルトと結婚した後の事を考えてくれている。

 アルヴィドとのお茶会の準備も、全て彼女が新たに雇い入れた使用人達がしてくれた。ランヴァルトは一円も出していない。何もしていない。一言「友人を招きたい」と云ったら、全て整えられていた。


「……僕なんかに、どうしてここまでしてくれるんだろう」

「俺に聞くな。エルヴィーラ嬢と話せ。時間、取ってくれてるんだろ?」

「うん。毎日来てくれて、夕食を一緒に取ってるよ」

「お膳立てされてんじゃん。ちゃんと話せよ。必要な事は全部。些細な事でもいいから、全部だ」

「全部」

「そう。話したい事、聞きたい事、どんな事でもいいから全部だ。黙り込むな。目を逸らすな。お前はもう、腹を括るしか無い。エルヴィーラ嬢と結婚して、一生添い遂げるんだ。その為には、不安要素は全て潰す気でいろ。そうじゃなきゃ、エルヴィーラ嬢に悪いだろ?」

「そっか……そう、だね」


 エルヴィーラの事を思い出す。

 燃え盛る炎を幻視する黄金の目。自信に溢れた傲慢な笑顔。丁寧に結い上げられた鉄紺色の髪。健康的に艶やかな白い肌。屋敷を買える程に高価なドレス。彼女を彩るたくさんの宝石達。それに負けないどころか完全に勝利している、左右対称に整った美しい顔。

 彼女の前で、ランヴァルトはいつも萎縮していた。俯かないように、猫背にならないようにするのが精一杯で、視線を合わせるだけで息が上がりかける。自分とは違う、強い人。王侯貴族も、聖職者も、悪魔や天使とて彼女の財に敵わない。誰より高い場所に居る、世界最高の一人。誰も彼もが媚びへつらう、そうせざる得ない財貨の化身。

 それなのに。

 彼女は一度たりとも、ランヴァルトを軽んじなかった。

 婚約者として、未来の夫として大事にしてくれている。周りに居る者がランヴァルトを尊重しない事を、決して許さなかった。

 ――何もないのに。ランヴァルト自身は、何も持っていない。血統がよいだけの、ただの男なのに。

 エルヴィーラは誰でも選べた。どんな男でも、一言「欲しい」と云えば自分の物に出来ただろう。皇族・王族に輿入れだって出来る。どの国の皇室・王室も、諸手を挙げて歓迎する。彼女自身が国を作る事も出来た。それだけの財と人脈を、エルヴィーラは持っている。

 それなのに選んだのは、地雷原男と名高いランヴァルトだった。どうして、と思わずに居られない。だが聞くのも怖かった。「誰でも善かった」「適当に目についた」と云われたら立ち直れない。

 けれど、聞かない訳にはいかないのだろう。これほど恵んで貰っておいて、一人不安にうじうじしているのは確かに不誠実だ。

 話を、しなければならない。

 気合いを入れる為に、ランヴァルトは口を一文字に引き締めた。

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