49.兄弟
朝から体調が良かったから。雨が降る前に買い物に出ようと思った。重苦しい曇天の下、籐で編んだ大きな買い物かごを手に取って表へと出る。
「今日の夜は、祝い飯で頼むぜ」
朝、家を出る前に、ウミはこちらを振り返り、そう言った。
ウミの仲間たちは会う度に喧しく迷宮の探索度などを報告してくるが、ウミ本人は迷宮について最低限のことしか伝えてこないし、自分もウミ本人にどうなのかと聞くことは無い。
それでも、一緒に暮らしていれば分かることもある。
例えば前日から大量の武器の手入れを始めたり、爪を研いでいたり、いつもはつけていない防具を全て付けて玄関に立っていたりしたら、何か大変な戦いがあるのだろうということくらいはわかる。
不安を顔に出したつもりは無かった。
だが、いつもの見透かすような、腹の立つ顔でウミはそう言ったのだ。
「…少しは奮発してやるか」
独り言ちると、つい頬が緩んだ。
素直に口にしたことは無いが、ウミの不器用な気遣いが出会った頃から変わらないことが、いまだに嬉しい自分がいる。
商店へ向かう坂を上る。少し、息が切れる。弱い体を恨みながら、休み休み歩いていると、転がるようにして街の中心部に向けて駆けていく、頭から布を被った薄汚れた異様な一団とすれ違った。
先頭の一人と、目が合う。
「あ」
見知った顔だった。
そのドワーフは、日に焼けた顔を真っ青にして、両腕で何かを抱えている。布に包まれた、血で汚れた何かだ。
その後ろに視線を移せば、やはり血で汚れた、人ほどの大きさの何かが、麻袋に入れられて男二人に抱えられている。
その男たちも、そしてそれに続く男女も、あまりにもよく知っている顔だった。
…あれ?
彷徨う視線は、無意識に"あと一人"を探す。
「ウミ?」
悲鳴のように、雨が降り出した。
-
「君が、本当の兄弟だったら良かったのにな」
外壁補修用の石煉瓦が積み上げられたその裏でいつものように落ち合い、なんでもない話をしていた。
ただ一人の友人。お互いを個人として認識する唯一。
初めにここを見つけたのは僕の方だった。家に居場所が無く、人目につかない場所を探して彷徨っていた僕がたどり着いた、隠し場所だった。
蟻の巣が近くにあるため、その行列を眺めていれば飽きはしなかった。腹が減ればその蟻をつまんで食べればいいし、煉瓦で熱射も防げて、とても良い場所だった。孤独であること以外は。
─何してんの
─…へ?
そこにある日やってきた彼は、その持ち前の傍若無人さであっという間にこの寂しい場所を二人の場所へと変え、居場所のないひとりぼっちの出来損ないを彼のただ一人の友人にしてしまった。
生まれる前の子供たちは文字通り生まれていないため、外の世界と交流することは許されていない。こうして他の家の子供と会っていることが大人たちにバレては、きっと大変なことになるだろう。
それでも、毎日毎日、どちらともなくここを訪れ、会い続けた。
共に遊び、鍛え、お喋りをする、誰も知らない、秘密の友達。
それは孤独な毎日に突如として舞い込んだ、細やかで満たされた時間だった。
しかしそんな日々も、いつまでもは続かない。
虫や動物の気配が薄くなり、昼でもそう熱くない日が増えてきた。一年の大半を占める熱い気候に慣れている砂漠の生き物にとって、短いが確かに厳しい季節が近づいていた。
儀式が近くなっていた。
元々貧しい生活は最近になって益々厳しく、出来損ないの自分だけでなく、他の兄弟たちも食事を随分と減らされていた。
一人、大柄な子だけが甲斐甲斐しく両親に世話をされていて、残りの兄弟達は全員がその意図を分かっていた。
生まれなければ元より無かった命なのだ。だから、悲しむことは何も無い。
「君が、本当の兄弟だったら良かったのにな」
ぽろりと零れた本音は、存外に切実な響きを抱いていた。
「兄弟だと殺し合わなきゃいけねぇな」
彼は、そう意地悪に言って片頬をあげた。
「そういう兄弟じゃないよ。そういうのじゃなくてさ…殺し合いなんてしない兄弟だよ…」
殺し合い。
儀式のことを思うと、じわりと視界が滲んだ。
この目は、感情が高ぶるとすぐに潤み、涙が溢れてしまう。水も、貴重だと言うのに。この厄介な目も、出来損ないたる所以の一つだった。
「おい、泣くなよ」
「…泣いてないよ…」
「その割に不細工な声だな」
ため息を吐かれる。胸の奥がぐぐぐっと傷んだ。
お父様もお母様も、食事の時になるといつもこうしてため息をつく。そもそも、食卓に出るのは腹など寸分も膨れない粗末なものばかりだ。それでも、大事な食事に、変わらない。
大勢の兄弟たちの分だけ、両親の食事量は減る。僕は、申し訳なさで体が縮こまる心地がする。消えてしまいたくなる。
彼がどんくさい僕に対してため息を吐いたり、舌打ちをしたりする度に僕はまた目頭が熱くなってしまう。
「なぁ泣き虫チビちゃん。あの洞窟の名前、知ってるか?」
暗い気持ちで足元の砂を爪で引っ掻いていると、彼は唐突にそう切り出した。
「洞窟って、儀式をするところの…?」
「ああ。あそこはな、母洞ってよばれてんだ。あそこは全てのリザードマンたちの母の腹なんだってよ」
「ふぅん…?」
言いたいことが分からず、曖昧に首を傾げる。
彼は、凛とした赤い瞳で、暮れゆく空を真っ直ぐに見つめていたが、やがてふとこちらを見る。
「同じ日にそっから出てきて生まれたらよ、そりゃもう兄弟だろ」
赤い瞳が細められ、笑いかけられる。その妙案に、僕は思わず手を叩いて飛び上がった。
「どっちがお兄ちゃんになるの!?」
「それは儀式の順番次第だろ。卵で生まれるわけじゃねぇからな」
「うふふ…わかった。僕ら二人、仲良し兄弟として生まれてこようね」
「そのためにゃまず生まれなきゃいけねぇんだからな。めそめそしてる場合じゃねぇぞ、おチビさん」
彼の大きな手が宥めるように頭に乗せられる。それを振り払い、逆に首に手を回しぐいと顔を寄せた。
「生まれたら、僕も戦士になる。君みたく戦士の一族としてやり直すんだ。虫飼いなんてやめてやる」
「いいんじゃねぇの」
「広い場所で走って遊ぼうね、日が沈むまで! 大人になっても遊んでいいのかな?」
「さあな」
「一緒にご飯も食べよう、僕が作るよ」
「虫料理ばっかりは嫌だぜ」
「それで、死ぬ時は同じ日に死のうね」
「そいつはちょっと重くねぇか」
「だって、リザードマンの兄弟ってそういうものでしょ。どっちかが死ぬか、もしくは揃って死ぬかしかないじゃない」
勢いで口にしてから、これはとても、いい考えだと頷いた。
何せ、寂しくない。
二人で立派なリザードマンになって、戦士として肩を並べて戦って、おじいさんになって死んで、でもその後も二人一緒なら寂しくない。
もしかしたら儀式は、そのためにあるのかもしれない。一人きりで死んだら寂しいが、兄弟みんなで死んだらきっと寂しくないから。
胸がすっとする。儀式への恐怖心が、僅かに和らぐ。目の裏の熱がすっと引いた。
「ま、考えといてやるよ。そんなこと言って、お前の方が先におっ死にそうな気がすっけどな」
「死なないもの」
僕は小指を立てて、彼へと向ける。
「絶対に生まれて、兄弟になろうね。約束」
「破ったら?」
「首チョンパ」
「はは、おっかね」
歯を見せた眩しい笑顔の後に、青い鱗の美しい小指が伸びて、僕の小指に優しく絡まった。
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