28.いいこいいこ
エンショウが地図を書き始めて、早くも二週間が過ぎようとしていた。
この二週間の間でエンショウは服の上から分かるほどに体重が落ち、溌剌さだけが取り柄だった顔には深いクマが刻まれ、眼精疲労による頭痛と、悪夢による寝不足でとにかく大変なことになっていた。
全て、地図制作のせいである。歩くだけで緊張で疲弊する命懸けの迷宮行の最中、大の苦手な作業を連日休まず続けていることはエンショウの体に多大なるストレスを与え続けていた。
「夢の中でも地図書いてんだよ…ずっと…一、二、三…ってよ…そんで記入する直前になんかが起こって…何歩歩いたか忘れちまってもっかい数え直すんだ……夢の中でだぜ? マジの悪夢…ずっとだ、ずっと…一、二、三、四…あれ今何歩だったか? もっかい一、二、三……すぐに忘れちまう……。寝ながら魘されたり歯ぎしりしてるらしくってよ、うるせぇってんで、そろそろ部屋追い出されそうなんだわ……」
エンショウの言う「部屋」とは貧しい出稼ぎ労働者たちが詰め込まれている集合住宅のことで、そこに壁で仕切られた個人の「部屋」などは無い。
板張りのダダ広いスペースに無数にベッドが置かれ、住民にはその内の一つとベッドの周囲の僅かな範囲だけが「部屋」として与えられている。
エンショウは、自身の思う最低限に文化的な生活のために、この硬く狭いベッドに自分で小さなテーブルをとり付け、裁縫をしたり食事をしたり書き物をしたりするスペースとしていた。
ベッドの下半分には迷宮へ潜るための荷物がごちゃごちゃと置かれているため、眠る時はいつも上半分で毛布を被り膝を抱え丸まっている。
足元にも、ベッドの下にもしまいきれない荷物は、ウミの家に預けたり、ハレの家のクローゼットに置き放しにしてあった。
一度、手元の荷物を全て売ってちゃんとした「部屋」を借りるよう、ハレやカノウが勧めたこともあった。
が、物のいちいちに愛着を抱いて手放せないのが、この男の数多ある愛すべき欠点のうちの一つであった。
金遣いの荒い、溜め込み屋。
辛うじて借金が無いことだけが救いである。
そんな、エンショウを含めこの街の中でも下から数えた方が早い層の連中が押し込められている住居である。
エンショウはついに先日、隣のベッドの男に歯ぎしりがうるさいと睡眠中に叩き起され、顔面に三発とボディに二発入れられたのだった。
普段ならばそれなりに気丈にやり返すエンショウだったが、既に連日の悪夢で疲れきっており、何より毎晩うるさくしている自覚があったため、素直に頭を下げて猿轡をして再度眠ったらしい。
その翌日、集合場所に顔をパンパンに腫らしてやってきたエンショウを見て、本人より周りが動揺し、その日の夜は流石のハレも家に泊めることを了承した。
そんなどこまでも悲惨なエンショウとは真逆にパーティー自体はメンバーの欠けも、メンバーのパーツの欠けも無く、迷宮探索は平穏そのものであった。
エンショウが多大なる犠牲を払って書いている地図のおかげというところもある。やはり道が把握出来ているというのは闇雲に歩き回るより効率がいいし、危険も少ない。
こつこつとした探索と戦闘の繰り返しで、出てくるモンスターの把握も大方済んでいた。
ウミ隊はこの期間で、一層の敵相手に手こずることはまず無いほどに、成長していた。
「そろそろ下に降りてェんだがな」
通路の端に座り込み、地上から持ち込んだパンを齧りながら、ウミは恨みがましげにそうぼやいた。
実のところ、二層へ降りる階段自体は一週間ほど前には既に発見済みであった。だが、一行は二層へは降りず、未だに一層をぐるぐると歩き回っている。
なぜか。
基本的にウミ隊は行動指針を多数決で決めている。そうそう意見が分かれることの無いパーティーだったが、二層へ降りるということに関しては票が割れ、結果として二層への降下は先送りにすることとなったのだ。
ヨミチの「そもそも迷宮に潜ること自体をやめたい」という意見を除けば、反対の理由は二つある。
一つ目は、ウミ隊を目の敵にしているミッシュルト達のことである。ちょうど、彼らが今探索を進めているらしいのがその二層なのである。ミッシュルトの捨て台詞のことを思えば迷宮内では出会いたくないのは当然だろう。
そしてもう一つ。これもミッシュルトたちが関わっていることであるが、彼らに随行している王国兵たちの殉死が多発しているという、不可解な話を聞いたからだ。
ハナコの同輩である彼ら三人は全員魔法使いである。そのため、随行する兵士たちは後ろの魔法使いたちを身を呈して守らなければならない。
迷宮の通路は狭く、大勢は通れない。たった数人で、打たれ弱い後衛を三人も守らなければならないのだ。それだけで大変なことは分かる。
だが、それでも彼らは兵士として訓練を積んだプロである。ハナコが以前言ったように、実力のある魔法使いが付いていれば三層まで降りること自体はそう難しいことではない。というのに、二層の段階でこうまで死者が多く出ているのは、あまりにも不自然なことだった。
「迷宮で仲間を亡くしてから暗闇すら怖がってた奴が、あのリーダーの兄ちゃんに声を掛けられてから進んで先頭に立つようになってよ…その、ちょっとやる気が、異常なくらいで。そうこうしてるうちに、一人で突っ込んで死んじまった。…変だよな、でもみんなそうなんだ。あの兄ちゃんと話してると、みんなおかしくなっちまう」
そう話していたのは、かつては前広場に駐屯していた人間の兵士だ。
ミッシュルトたちが二層へ降りているタイミングを見計らい内広場を訪ねた際に、聞いた話だ。
「あの兄ちゃん、種族に拘りが強い人らしくてよ。ほれ、俺ら人間の男ばっかり取り残されて荷物番だ。ドワーフなんかは重宝されて連れてかれたよ。さっき話した奴も、ドワーフさ」
声を潜める兵士の前で、カノウが辺りを見渡しながら口を開く。
「前広場にさ、女の子がいたよね。あの子はどうしたの? ほら、人間の女の子。治癒が使えるっていう…」
それを聞いて兵士は、眉を下げながら首を振った。
「ああ、あいつなら故郷に帰ったよ。結婚しに行くんだと。あいつもあの兄ちゃんに声掛けられててなぁ。何言われてたんだか知らないけどよ、随分悩んでてよ、でも兵士として働きてぇから頑張るとか行ってたんだけどよ、しまいには帰っちまった」
「やる気も実力もある奴だったんだけどな」と残念そうに兵士は言った。
「ハランってのは、そういう奴なのよ。カルトじみた優生学に取り憑かれていて、しかもそれを推し進められる力がある。…魔法とかじゃない、あいつが持って生まれた才能よ」
ハナコの言葉に、ヨミチは「ああ」と呟く。思い当たる節があったからだ。
初めて、あの男の姿を見た時。ちょうど、同じこの場所で、ヨミチはあの男から魂を掴み引き寄せられるような、強烈な引力を感じた。
全てを委ねてしまえそうな。この男を信じれば、なにも間違いがないと、予め知っているような……。
「容姿、声、所作、言葉。全てに、人を操る力がある。あいつは他人の人生を手遊びに爪繰って、めちゃくちゃにしては愉しんでいるのよ。いかれてるんだわ」
そう吐き捨てるハナコの顔色は紙のように白く、指先は震えていた。
ハナコもハランに何らかの言葉を与えられ、そして抗い続けながらここにいるのだろう。
兵士に礼を言って内広場を去り、やはり向こうのなんとも不気味な動向を暫くは静観しようということで可決する。
一先ず、一層を踏破して地図を描ききってしまおうというのが当分の目標として定まり、それから数日が経った。
地図を必死で書いているエンショウ。戦闘に慣れようと鍛錬するヨミチ、カノウ。迷宮内の独特の魔力の扱いに困難しつつも魔法の習得を進めているハナコ、ハレ。
それぞれが二層へ向けてやれることをやっている中、誰よりも先頭を歩き、誰よりも戦果をあげているウミは、張合いの無い一層の敵に対して極度の飽きが訪れていた。
彼が迷宮に潜る理由は「腕試し」である。種族としての身体能力、また戦闘に身を置いてきた経歴からも他メンバーより実力が頭一つ抜けているウミにとっては、一層はもう肩慣らしにもならない。
二層の階段を見つけて以来、降りよう降りようとしきりに口にしている。
「クソオカッパだけでもちょっとキツかったのに、そこにカルト男とあと一人が加わっちゃったら、今の私たちじゃ相手するの厳しいよ。射程の問題で一瞬で丸焦げにもなりそうだし」
宥めるようにカノウが言うが、
「かち合うかもしれねェってンなら、一層だって同じだろーがよ。連中だって地上に戻る時は一層を通るんだぜ」
とウミは赤い瞳でじろりとカノウを見る。
カノウは小さく頬を膨らませ「それは…確かに」と俯く。
「うかうかしてて獲物を横取りされちまったら、意味ねェぞ」
ウミは耳まで裂けている口をパカリと開き、残りのパンを一口に放り込む。
「エンショウがスタスタ歩きながら地図を書けるようになったら、二層降り時かな。もしばったりヤバいのに会っても、地図があるなら真っ直ぐ逃げられるしね」
辺りを警戒しながらも二人の会話を聞いていたハレが、そう口を挟んだ。ウミはつまらなさそうに背を丸めるが、カノウは「そうだね」と笑顔を見せる。
「任せろ…俺は一昨日、方角を理解したからな……。しかも数字札のお陰で格段に効率が上がってる……大丈夫だ、俺はやれる……でも一層の地図出来たらよ…みんな俺のことたくさん褒めてくれよな……」
エンショウは、ハナコが発案しカノウが作った、一から順に数字の書かれた紙が紐を通して束ねられている通称「数字札」と、宝箱から取り出したばかりのスクロールを握り締め、ゲッソリとした顔でにへらと笑った。
「もう既にだいぶ褒めてあげたい気分」
そう言ってヨミチは、エンショウの細くなってしまった体を労りの気持ちで抱きしめる。
それにつられるように他の面々もエンショウの頭や肩をよしよしと撫でさすったのだった。
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