272)湯船にて
ドルジが好んで来ると言う、古い造りの"梅松の湯"……。
何故か……彼が来る日は、馴染み客すらこの銭湯に来れず、常にドルジ一 人の貸切りになると言う、番台の老婆。
老婆の話を聞いた前原は……ドルジが何らかの力で、この状況を作り出していると理解した。
(……奴が来る時……誰も来れない? まるでファンタジー小説で在りがちな、認識阻害とか言う魔法みたいじゃないか……。 いや……あの広い廃工場跡地を、一瞬で丸々凍結出来る様な連中だ。 魔法みたいな力、使えても全然不思議じゃない……。そもそも、うちの分隊にも、冗談みたいな力を使える魔法使いカップルが居るじゃねか。改めて考えたら……とんでもない職場だったな)
前原はあり得ない状況に、最初は混乱していたが……良く考えれば、自分が所属していた特殊技能分隊に、玲人と小春と言う"魔法使い"の中学生カップルが居る事を思い出し、落ち着きを取り戻した。
そして"あり得ない状況"が日常化していた、分隊での日々を振り返して……思い出し笑いを浮かべながらも、分隊から離れた事に寂しさを感じていた。
そんな中……。
「……どうしたんだい、突っ立ったままで! ドルちゃんの友達なんだろ? 早く入りんなよ」
前原の感傷を振り払うかの様に、番台の老婆は明るく声を掛けてきた。その言葉に前原はハッと理解する。
「……友達…… そうか……俺は、逆に……奴に呼ばれたのか……」
老婆の何気ない言葉に……誰も入れない筈の"梅松の湯に、自分だけが入れた意味をようやく理解する。
"ドルジが自分を呼んでいる"、その状況を理解した前原は……恐るべき戦場へ単身、乗り込む様な緊張感を抱きながら、店内に入るのだった。
服を脱いで浴室に入った前原……。
浴室の壁は立派な梅と松が描かれたタイル絵があり、その前に大きな浴槽がある。
その浴槽に ドルジが目を瞑って浸かっていた。
広い浴槽に、巨漢の男ドルジが入ってると、浴槽は何となく狭く感じる。
目を瞑り静かに浴槽に浸かるドルジは、純粋に風呂を楽しんでいる様だった。
その様子は……巨漢の男と言う事以外は、唯の馴染み客に見える。
前原でさえ、この湯船に浸かる男が本当にドルジなのかと、一瞬疑った程だ。
しかし、前原は……直ぐにそれが間違っている事に気が付く。
何故なら……目の前の巨漢の男には、無数の傷が刻まれていたからだ。そして……上半身にVの字に刻まれた大きな傷跡。
この傷跡を見れば、呑気に湯を楽しむ……この男が、あのドルジである事は疑いようが無かった。
その大きなVの字の傷跡こそ……廃工場跡での戦いで、覚醒した玲人から……大地を抉る程の攻撃を受けたドルジに刻まれた傷だったからだ。
玲人の攻撃を受けたドルジは、上半身に左胸から左肩に掛けてVの字の大きく裂けた状態となり……傷口から肋骨や内臓が見える即死級の傷を負った。
にも拘らず、ドルジは平然と会話し……思い出した様な感覚で、数秒の内にその傷を治して見せた。切断された右腕と共に……。
その出来事を目の当たりにした前原は、目の前の男に刻まれた大きな傷を見て、この男がドルジである事を、改めて認識させられた。
そして、あの廃工場跡での戦いで……このドルジと言う男が、理解を遥かに超えた人外の怪物で有る事も、思い出され……戦慄する。
この浴室には、その恐るべき怪物であるドルジと、前原の2人切りだ。
前原にはドルジを無力化して、拘束する自信は欠片も無く……こうしてドルジを追って来たはいいが、連絡は何故か携帯端末が圏外のままで出来ず、応援も呼べない。
ドルジを追い詰めたつもりだったが、実際は……この梅松の湯へと前原が誘い込まれただけだ。
もし、ドルジが気まぐれに……軽く腕を払うだけで、前原は……この梅松の湯ごと、叩き潰されて即死するだろう。
そして、前原には、そんなドルジを止める事すら出来ないのだ。
浴槽に静かに浸かるドルジに対し、前原が緊迫したまま、どうしようかと思案していると……。
「……遅かったな……。さっさと湯に入るがいい……」
浴槽の中からドルジが前原に声を掛ける。
「…………」
声を掛けられた前原は仕方なく、かけ湯をした後……浴槽に浸かる。
「「…………」」
同じ湯船に入った2人の男……。
敵同志である筈の彼らは、まったりとした空間の中……。唯、黙って熱い湯に浸かる。
しばらく、そうしていた2人だったが……前原が、遂に我慢出来なくなってドルジに問う。
「……何故……こんな所 に……?」
「……風呂に入るのに理由が……?」
前原の間にドルジは、さも当然の如く答える。対して前原は……。
「そ、そう言う事を聞いてんじゃねェ! 何で敵のお前が、こんな銭湯に通ってんだよ!? アガルテイアとか言う国の奴らなんだろ、お前らは! 一体、何がしたいんだ、お前らは!?」
ドルジの言葉が到底、納得出来なかった前原は、思わず立ち上がって叫ぶ。
思わず立ち上がって、ドルジに向かい叫んだ前原に対し、ドルジは……。
「……フン……粗末なモノを見せるな……」
ドルジは前原の股間を一目見て、見下しながら呟く。
「ば、ばかやろう! そんな憐れんだ目で見んな! 至って普通の子だよ、俺の子供は!」
股間の愚息をバカにされた前原は少し冷静になって湯船に浸かり、ドルジに反論する。
「……見栄を張るな……俺は別にどうでもいい」
「見栄じゃねェし!? コッチは気にするわ!」
淡々と話しながら、前原を可哀そうな目で見るドルジに、前原は更にヒートアップし て弁解した。
「だ、大体! アンタも他の事言えんの……、おおう!? ……あー……そ、そそ粗末で……すいません……」
煽って来たドルジの股間を見た前原は、一目彼の大砲を見て撃沈し、自己嫌悪に陥る。
「……男の本質は……性根で決まる……」
「そ、そうですね……は!? な、慰めてんじゃねー! 元々、アンタが言いだしたんだろ!?」
愚息と大砲を比較して落ち込んだ前原を、ドルジが静かに慰めるが……前原は事の発端を思い出して大声で怒る。
そんな前原にドルジは……。
「……ククク……」「アハハ!」
前原の必死な様子がおかしかった様で肩を媱して笑う。ドルジの笑う姿を見た前原も、何だか面白くなり、連られて笑ってしまったのだ。
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