第248話 降り注ぐ雨、流れる星

「キリシ、アルケイオン・イ・ル・グオラ! 改変術式有効化! 顕現せよ!!」


 サイの詠唱と共に、天空に巨大な六重魔法陣が浮かび上がる。幾重にも重なる銀色の輪は、それぞれが回転しながらさらにいくつもの多重魔方陣を構築する。光の塔のように絡み合った一群の魔方陣はまっすぐ天に向かって積み上がり、輝きを増しながら一気に伸びてゆく。

 その様子は、まさに天へと通じる階段のようだった。


 途端、信じられないほどのスピードでにわかに黒雲が湧き上がり、あっという間に辺りは闇に包まれた。


「こ、これは……!」


 クレインが震える声を上げる。次の瞬間、目の前が真っ白になるほどの稲妻が黒雲の中を走り、耳を聾する轟音が大気を揺らした。

 そして、すぐに土砂降りの雨が落ちてきた。

 ひょう交じりの大粒の雨が降り注ぎ、胡桃ほどの氷の塊が天幕を突き破って作戦卓をバシバシと叩く。


「うわあああっ!」


 あまりの激しさに兵士たちは悲鳴を上げ、頭を抱えて地面に身を伏せる。まるで滝のように降る雨に、瞬く間に一面が水浸しとなった。


「すごい! まるで天の水瓶の底を抜いたよう……」


 スリアンは呆然と呟く。サイの魔法の凄まじさに、改めて圧倒されていた。


 あたり一面、真っ赤に燃えさかっていた炎の大地は、激しい水蒸気を上げながら猛烈な勢いで雨を吸い込んでいく。あたり一面がもうもうとした白煙につつまれ、濁流のように降り注ぐ水の圧力が、新たな炎の出現を許さない。


「よかった……地下への延焼もこれならば食い止められましょう」


 ずぶ濡れになりながら、スリアンの隣でほっと安堵の表情を浮かべるクレイン。だがスリアンは、不安げな眼差しでサイの元に駆け寄っていた。


「サイ!!」


 ふらつくサイを、スリアンは必死に支える。

 ガクリと膝をつき、泥にまみれながらサイは弱々しく微笑んだ。


「大丈夫、平気だよ……たぶんこれで、君も、無事なら……」


「しっかりして! サイ!」


 スリアンが叫ぶ。

 だがサイは、そのままぐったりと目を閉じてしまう。全身から魔力を絞り出した反動からか、それとも緊張の糸が切れたからか。


「誰か!! 彼を天幕に! 運ぶのを手伝ってくれ!!」





 気がつくと、あたりは一面真っ白な空間だった。

 遠近感も上下もない茫漠とした空間を漂っていると、目の前にぼんやりと若い女性の顔が浮き出してきた。 


「サイ、最後に会えて良かったよ」

「理彩!」

「ごめんね。もうリソースに余裕がなくて、私たちのマンションも再現できないんだ。残念だけど」

「今、最後って……」


 彼女の言葉に、サイはほんのひととき、共に暮らした私鉄駅そばのマンションを思いおこしていた。

 あの部屋のリビングで、コーヒーをすすりながら、二人は何時間でも語り合ったものだった。


「うん。衛星シンシアの主電源はすでに喪失してる。姿勢制御用イオンエンジンの反応材も一滴残らず使い果たした。今は緊急用のバックアップで何とか動いてるけど、数時間以内にはそれも尽きる。あとは地表に落下するだけ」

「じゃあ、理彩も……」

「うん」


 眉を寄せて唇を噛むサイに向かって、理彩は苦笑いの表情でてへっと舌を出す。


「君の活躍を今日まで見守ることができただけで充分満足」

「そんな! 何か方法があるはずだ!」

「……うん。やっぱり、君は少年の姿よりも成長した今の姿の方が何倍もカッコいいね」

「はぐらかすなよ! そんなことより——」

「いいの。前にも言ったけど、今の私は単なるデータ。オリジナルの理彩が残した未練のかけらみたいな物」

「でも、こうやってちゃんと話ができるじゃないか! 君は間違いなく人格を持った存在だ!」


 理彩への感謝と切なさが、サイの胸を締めつける。彼は、彼女がもはやただのデータにすぎないことをどうしても受け入れることができなかった。


「そうだ! 僕の脳に取り憑けばいい。できるんだろ? 僕の記憶力なら、理彩の人格データくらい——」

「……やめておくよ」


 理彩は少しだけ寂しそうな口調で、しかしきっぱりと断った。


「君にはもう新しいパートナーがいるじゃない。それに、魔法が消えたこの世界で、君達はこの先間違いなく相当な苦労をするはずよ。私みたいな存在に余計なリソースを割くような余裕はないはず」

「でも!! 君が消えるのをただ黙って見ていることなんてできない。理彩、お願いだから——」


 サイの声は震え、目には涙が溢れていた。


「……こんな形で終わりたくない!」


 だが、理彩の表情は揺るがなかった。


「私は君を悩ませるために出てきたわけじゃないんだよ。最後に一言、心から感謝を伝えたかっただけ。私の前に現れてくれて、何度も命がけで私を助けてくれて……」


 無理に笑顔を浮かべる理彩。だが、その声は震え、瞳には涙が今にもこぼれ落ちそうだった。


「理彩!!」

「本当にありがとう。そしてさよなら。じゃあね」

「理彩!!」


 手を伸ばす暇もなく、理彩の面影はそれきり急速にぼやけ、やがて、真っ白い霧の中に溶けるように消えてしまった。



 


 次に意識を取り戻したとき、あたりはすでに宵闇につつまれていた。

 サイはスリアンの膝に頭を預け、その頬はひんやりとした手のひらに包まれていた。


「……あ」

「サイ!! やっと起きた!」


 その途端、サイの鼻頭にぽたりと熱いしずくが落ちてきた。


「スリアン……?」

「あ、ごめん、何でもない」


 スリアンは顔をそらすと小さく鼻をすすり、手の甲で自分の目頭をゴシゴシとこすった。


「ここは? それに、戦は?」

「ああ。ここは王都に戻る馬車の中。反乱は無事鎮圧した。もちろんボクらが勝ったよ。それに、あの火災も鎮火した。地下の瀝青鉱も含めて、完璧に」

「……そうか」


 サイは一旦起こしかけた頭を押さえられ、再びスリアンの膝の温かみを後頭部に感じながら、つぶやくように詫びた。


「スリアン、ごめんな」

「え? 何が?」

「僕はもう、魔法使いでも何でもない。もちろん〝魔導〟侯ではいられないだろうし、貴族位を失えばゼーゲルの領主代理も君との婚約も当然解消になるだろう」

「な〜んだ、そんなこと」


 だが、スリアンは何でもないことのように笑い飛ばした。


「それより、何だろうね、あれ?」


 馬車はちょうど上り坂にさしかかろうとしていた。

 身体を起こし、スリアンと並んで彼女が指さす先を眺めてみれば、先ほどまでの豪雨がウソのように晴れ渡った夜空に、キラキラと輝きながら星が降っていた。


「わ、どんどん増える! すごい!」


 異変を感じた御者が手綱を引き、馬車は丘の頂上で停止した。


「少し外の空気を吸おうか?」


 スリアンにそう促され、二人は馬車を降りると路傍の丸太に並んで腰を下ろした。


「こんなものすごい流星雨、初めて見るよ」


 数千年にわたりこの世界の空を巡り、人々を守護してきた魔法衛星。

 サイの求めに応じ、その機体に残ったエネルギーをすべて絞り尽くした衛星は軌道を外れ、この星の大気圏に突入してまさに燃え尽きようとしている。


(……理彩)


 サイは、無言で降り注ぐ流星を見上げた。

 理彩の存在が彼の心の中でいつまでも輝き続けることを願いながらも、彼の涙は静かに地面を濡らしていた。

 わずか数か月間一緒に過ごしただけのサイのために、異世界の少女はその後の生涯を費やして魔法を支えるシステムを開発し、さらに時を超え、世界線をも越え、ずっとサイを守ってくれていたのだ。

 その並外れた想いの強さ、その献身のひたむきさに、サイはただ感謝の涙を流し、その魂の安らかならんことを、ただひたすらに祈った。

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