第199話 オラスピアの女王
夜明け前から降り出した雨は、明るくなる頃には細かい霧雨に変わった。
乾燥したこの国では、雨そのものが相当に珍しい。しかしここゼーゲルでは海から湿り気を含んだ北風が湾に吹き込み、地形の関係でまれにこんな天気に見舞われる朝がある。
「なんだかうっとうしいね」
朝食後の黒豆茶をすすりながら、スリアンはうんざりといった表情で窓の外を見やる。分厚いベールのような濃霧に隠され、通りの向かい側の建物すら見通せない。だが、サイにとって雨はむしろ懐かしさを感じさせるものだった。
女神によって送り込まれた異世界、日本。
そこは季節があり、時期によって毎日のように雨に見舞われる日もあった。一年中同じような暑く乾燥した天気、温度の変化もほとんどないこの世界とは違い、変化の多い気候をサイは結構気にいっていた。
「まあ、たまにこうやって雨が降る方が、砂ぼこりが洗われていいじゃないですか」
「えー、ホントにそう思う?」
細かい砂ぼこりでどこもかしこも薄茶色に染まったサンデッガの王都をサイはあまり好きではなかった。ここゼーゲルはそれに比べればずいぶんましだ。
だが、スリアンはしきりに襟元を広げるような仕草を繰り返す。どうやら蒸し暑さが得意ではないらしい。
その時、控えめなノックの音が部屋に響いた。
「オラスピアの馬車が迎えに参りました」
ドアの隙間から顔をのぞかせ、セラヤがあまり気乗りのしない口調でボソリと告げた。
「どうだい?」
「相変わらず気持ち悪いほどの回復力ですね」
一晩でサイのケガはセラヤが驚くほど回復していた。
コルセット代わりの軽鎧をサイに着付けながら、セラヤはスリアンの問いにあきれ気味に答える。
アーカイブが停止しても、マイクロマシンの身体維持機能にはそれほど影響しないものらしい。あるいは、理彩の隠れ家でもある衛星のAIがうまくやってくれているのかも知れない。
だが、魔法についてはまた別だった。サイの魔法結晶はアーカイブの停止に影響を受けないと理彩は保証したが、指先でパチンと弾ける程度の小さな魔法を発現しようとして、無詠唱はおろか呪文をつけてもうまくいかなかった。これまでずっと意識せずにアーカイブ経由の魔法を使っていたわけで、シンシアに対しては何か別の
「このタイミングでの外出は気乗りしませんが……」
セラヤはサイの準備が終わると、自分も手早く戦闘服に着替え、戦杖を持って現れた。
「暴徒が鎮圧されたとはいえ、まだまだ敵地と同じですからね」
スリアンとセラヤには昨日のうちに魔法が使えなくなったことは話してある。スリアンはむずかしい顔で「うーん」とうなったきり何も言わなかったが、そもそも〝魔導伯〟や〝魔導侯〟の地位は魔道士であることが大前提だ。もしこのままサイに魔力が戻らないなら、ゼーゲルの領主の件も恐らく振り出しに戻るだろう。
「サイ、今の君は平凡な少年と同じだ」
スリアンは念をサイの肩を抱いて言い聞かせる。
「いいね。くれぐれも自重して」
「はい」
サイは唇を噛むと、ふがいなさを感じながら小さく頷いた。
同時に、オラスピアの魔道士ユウキとはもう一度じっくり話をしてみようと思った。
彼もまた魔道士であり、今回の一件が彼に影響していないはずはないのだ。だが、自分には魔法の才能がないと言っていたマヤピスのナオが過剰なほどピリピリしている一方、より深刻な影響を受けているはずの彼が、そのことに動じている様子はまったく感じられなかった。
「では、参りましょうか」
三人はセラヤの先導で宿を出ると、目の前につけられた二頭立ての豪華な四輪馬車の前に立った。
白く塗られた
サイが構造をもっとよく見ようと腰をかがめかけたところで中から扉が開き、長い髪を後ろで結わえた活動的な冒険者装束の女性が顔をのぞかせた。
滅多に見ないほど整った顔立ちにまず驚いた。だが、華のある美人というよりは、むしろくるくると変わる表情と、スレンダーな身体全体からにじみ出る躍動感が印象的だ。
「こんにちは、タースベレデの皆様。ユウキから申しつかりまして、私が本日皆様の案内をつとめさせていただきます」
彼女はそう前置きをしてにっこりと魅力的な笑顔を見せた。
「スリアンです」
「セラヤと申します」
口々に自己紹介をして馬車に乗り込む。サイも扉に手をかけようとしたところ、その手をひょいと引かれて一瞬で馬車に引っ張り込まれた。
「さて、あなたがサイ君かな?」
彼を車内に引っ張り込んだ張本人は、猫のように目を細めながらニコニコと笑う。あっけにとられて反応できずにいると、彼女は頷きながら脇腹を指先でつんと突いてきた。
「え!?」
「うんうん、もうケガの具合はいいみたいね」
「あ!」
ケガを見抜かれていることにも驚いたが、それが人並み外れた速度で回復していると確信していることにもっと驚いた。目を丸くして何も言えないでいるサイに、彼女はいたずらが成功して喜ぶ幼女のように無邪気に笑いかける。
「あなたの事情は彼から聞いてるわ。あ、それよりも自己紹介がまだだったわね。私の名前はフォルナリーナ・アーネアス・オラスピア。できれば、気軽にフォルと呼んでくださいな」
「「「え!!」」」
サイだけでなく、シートに腰を下ろしかけたスリアンとセラヤまでもがぎょっと動きを止めた。名前に国の名が入るのは、普通その国の王族だけだからだ。
「まさか 女王陛下!?」
「ええ、そのまさかです〜。私がオラスピア王国の代表者、以後お見知りおきを」
彼女は狭い車内で器用に腰を折り、目に見えないドレスの裾を持ち上げるような仕草をしてみせた。
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