第168話 スパイの訪問

 スリアンの提案は魅力的だった。

 なにより、サイ自身がスリアンを助けたいと思っている。得体のしれない自分をここまで買ってくれるタースベレデの王家に恩返ししたい気持ちもあった。また、他人の気持ちに鈍感なサイでも、ここまであけっぴろげな好意に気づかないほど間抜けでもない。

 だが、即答できなかったのには理由がある。

 サイの心に引っかかっていたのは、昨日の深夜こっそり忍んできた〝マヤピスの遠耳〟ことナオの言葉だった。





「まずは敵地から無事のご帰還、お慶び申し上げます」


 ナオは慇懃いんぎんな口調でそう切り出すと、ベッドサイドに書架用の踏み台を引きずってきてそこにどっこらしょと座り込んだ。暗闇の中、窓から差し込むわずかな星明りだけではこの諜報員スパイの微妙な表情まではわからない。


「こちらこそ、危険をかえりみず僕に魔法結晶を届けてくれてありがとうございました。おかげで死なずに済みました」


 こっちはとても〝無事に〟とは言えない傷だらけなんだが……とは思いつつ、作り笑いで当たりさわりのない礼を返す。


「なーに、礼には及ばないよ。我々マヤピスとしても、大陸に十六人しか存在を許されない貴重な存在を簡単に見殺しにするわけにはいかなかったからね。半分はこちらの勝手な都合でしたことだし」

「……そういうことでしたら」

「ああ、気遣い無用。恩義を感じる必要すらないって」


 急にくだけたその口調には、わずかに面白がるような色が含まれていた。

 サイはこの青年がいまだに何となく苦手だった。彼の行動は今のところタースベレデと利害が一致しているが、そもそもマヤピスがどんな行動原理で自分たちに手を貸してくれているのかさっぱりわからないからだ。


「こっそり忍び込んだりして悪かったね。タースベレデのお姫様には内密に耳に入れておきたい話なんだ」

「でも、あとで僕がスリアンに話すかもしれませんよ?」

「サイ君がそう判断したのならそれはそれで構わない。でもね、立場によっては変に勘繰られる可能性もあるからさ」


 ナオはそう前置きをすると、静かに話し始めた。


「我々マヤピスは、古来からこの大陸の天秤バランサーを自認している。陰ながら特定の国が極端に力を持つのを防ぎ、大きないくさが起きるのを阻止してきた。複数の国家がちょうどいいバランスでお互いに睨みあっている方が――」

「マヤピスの発言力が増すから?」

「察しがいいね。まあ、もともとは我々の始祖が貴重な資料が戦火で焼かれるのを嫌ったという単純な理由から始まった話なんだけどね。図書館都市の使命として、大陸中から本を集める過程で、各国の様々な……時に表ざたにできない情報もマヤピスに集まる。また、集めた情報を適切なタイミングで適切な相手に提供リークすることで無用な争いを防ぐこともできるし、結果として無駄に人命を失わずに済む」

「それだけ聞くと、とても良い話のように感じますけど……」

「ああ、一見、ね」


 サイは慎重に言葉を挟む。


「……でも、それってとんでもなく傲慢ごうまんですよね。マヤピスは正義の女神Lady Justiceにでもなったおつもりですか?」


 クスリと小さく笑う気配がナオから伝わってくる。


「まあ、普通そう思うよね。上から目線で他国の思惑をどうこうするなって」

「ええ」

「でも、これが我々の生存戦略なんだ。自前の武力もなく、他国の領土内にぽつんとシミのようにある小国が独立と発言力を維持するには、したたかになるより他に方法がない」

「……そんなものですか?」

「ああ、そんなものだ」


 ナオは大きく頷いた。なんの気負いもないその様子から、彼がそのやり方を微塵も恥じていないことがよくわかった。


「で、その正義の女神様が僕に伝えたいことってなんですか?」

「フフッ、そうあおるなよ」


 ナオはクスクスと笑う。


「今回の戦を防げなかったのは我々マヤピスとしても忸怩じくじたる思いがあるんだよ。本来なら起きる火の手じゃなかった。予想外だったのは、ヘクトゥースのサンデッガ流入が想定以上の急ピッチで進んだことだ」


 サイは唇を噛む。密輸の片棒を担いでいたのは彼の幼馴染だし、サイもまったく無関係とは言い切れない。


「信じられないかもしれないが、サンデッガの愚王も王太子時代はまともだったんだ。外務卿が土壇場まで愚王を見捨てなかったのは、俊才とたたえられた若き王子の姿を忘れられなかったからだ」

「……へぇ」

「その目は信用してないな。でも、前にいかづちの魔女が釘を刺しに行った時も、本音はともかく忠告を聞き入れるだけの分別は確かにあった」

「それが、なぜ?」

「さあねえ」


 ナオはぐいと背中を伸ばしてため息をつく。


「魔道士アルトカルが王をそそのかしたっていう線はないですか?」

「ないとは言わないけど、一国の王ともあろう者が、部下の言葉をそこまで無警戒に信じるかい?」

「どうですかね?」


 サイも首をひねる。


「むしろ我々は、ヘクトゥースの流通に関わる者が諸悪の根源だとにらんでいる」

「ああ、それなら——」


 言いかけたサイを押しとどめるようにナオは左の手のひらをサイに向ける。


「君の話……ブラスタムの山中に旧ドラク帝国の残党が潜んでいて、ドラクの負の遺産を売りさばいているという件も確認した。確かに南部の没落貴族領経由でレンジ茶が流入していた形跡はあるけど、サンデッガ王宮から王都軍の末端に至るまで汚染するには圧倒的に物量が足りないんだ」

「え? ということは——」

「君の元婚約者、メープル嬢って言ったかな。彼女は本丸から目をそらすためのおとりとして元凶に使い捨てられたんだよ」

「何だって!!」


 サイはいきり立った。


「声が大きい!」

「だって!!」

「とりあえず落ち着けよ。我々マヤピスはこの件をきわめて重視している。きちんと解明しないと、サンデッガと同じようにまた別の国が大元から腐らされるだろう。大陸は混乱し、下手すれば多くの国を巻き込んだ大戦に発展するかも知れない。それは困る。だが、真相を知る立場にいたアルトカルもサンデッガ王もすでに鬼籍きせきに入っている」

「困るなんてもんじゃない。大変じゃないですか!!」

「ああ、だから俺は君に声をかけた。どうだろう。この件に協力してくれないか?」

「それは……」


 サイは言葉に詰まった。

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