第163話 復活

 少年が目覚めたのはもう夜明けも近い時間だった。

 天幕のすき間から冷えた夜の空気が吹き込み、彼は思わず身震いをして小さくくしゃみをした。


『お目覚めになりましたか?』

「君は……」

『あら。思考で会話できると申し上げましたよ』

『ご、ごめん。こういうの、まだ慣れてなくて』

『いえいえ、で、どうです? 記憶は戻りました?』

『あー、いや、まだ』

『……そうですか』


 少し落胆したような声。だが声は気を取り直したように続ける。


『ま、気長にいきましょう。それよりもヘクトゥースの効果はもう残っていないはずですが?』


 少年は首を回してコキリと鳴らすと、そのまま小さくうなずく。


『すごいな。耐えられないめまいも、あのしびれたみたいなイヤな感じもすっかり消えてる。それに足の傷の痛みがほとんど……』

『そうでしょそうでしょ。あなたの体内にある細胞セルを活性化してひたすら毒物の分解と損傷の修復につとめましたから〜!』


 脳内の声は急にはしゃいだような調子になった。


『あ、で、その、せる――』

『マイクロマシン細胞セル。あなた方魔道士の血族に受け地がれるバイオテクノロジーの結晶、血管やリンパ管を利用してして全身を巡る人工の血球細胞ですよ』

『なんだそれ?』


 少年は目を丸くする。


『ええ、はるか古代、この世界に降り立ったあなた方のご先祖に、創造主が授けたお守りのようなものです。現地のあらゆる病原菌から身を守り、ケガや損傷の回復を助け、そして何より、端末を仲立ちに支援衛星とアクセスし、この世界に魔法を顕現するための――』

「えっ!!」


 少年は思わず驚きの声を上げた。


『お静かに。見張りの兵が起きてしまいますよ』

『あ、ごめん』


 何もない空間にペコペコ頭を下げる少年に、声はこらえきれないように小さな笑い声をたてた。


『で、キミは……』

『アーカイブとお呼びください。私はサイのような高次魔道士のサポートが仕事です。遠慮なく頼っていいのですよ〜』

『高次魔道士?』

『ええ、この世界全体でわずか十六にんしか存在を許されない創造主の代理人。私は本来、あなた方の外部記憶装置であり、奇跡の顕現装置でもあります』

『……あの、つまり、僕は魔道士なの?』

『ええ、それも、現時点この大陸に三人しかいない高次魔道士うちの一人。誇っていいと思います』

『でも、僕は何も覚えていない。多分魔法も使えないと思う』


 返事は少しだけ遅れた。


『なるほど、確認しました。サイの脳、海馬の周辺に血のかたまりが見られます。記憶の混乱はそのせいですね。マイクロマシンが出血を止めて障害を修復します。早ければ数時間で記憶の問題は改善するでしょう』

『そんなことまでできるのか……』


 少年は絶句した。


『記憶がない以上、仕方のないことかもしれませんが、魔法が使えないのは想定外。脱出に差しさわりがありますね』

『それは……なんていうか、ごめん』

『いえ、サイが謝る必要はありませんよ。ですが、皆さんがサイの一刻も早い合流をお待ちしているのも本当です』

『みんな? 昨日来たあの変なのも?』


 アーカイブは途端にしゃっくりのような笑い声を上げた。


『アハハ、変な、というのはケッサクですね。本人に伝えますよ。彼はあなたに魔法結晶を手渡して、後は脱出のお膳立てをする手はずです。でも、魔法が回復するまではうかつに動かない方がいいでしょうね』

『だけど……』

『問題はありません!』


 ためらう少年にアーカイブは太鼓判を押した。


『もうサイにヘクトゥースは効きません。たとえ樽いっぱいに飲まされたって数分で完全分解できます。むしろ効いているように見せかける演技が必要なくらいですって』

『でも……』


 じりじりと思い悩む少年に、アーカイブはたたみかけるように言う。


『大丈夫、大丈夫ですから。私はともかく、スリアン殿下を信じてください』

『スリアン?』


 その疑問に答は戻らず、声はそれきりふっと途絶えた。




 周りが明るくなるにつれ、兵の朝食用であろう肉の焼ける匂いがどこからともなく漂ってきた。

 数日食事を与えられていない少年の口の中に唾液があふれ、腹がキュウキュウと音を立てる。


「どうかね? 魔道士の少年よ。気分は?」


 ちょうどそのタイミングで薄暗い天幕に入ってきたのは治療師とその助手たちだった。

 助手の手には昨夜無理やり飲まされたのと同じ、つぼの縁までいっぱいのどろりとした赤い液体があった。少年は顔をこわばらせるが、彼らは気にする様子も見せず再び同じように管つきの漏斗を強引に少年の口に突っ込み、どばどばと液体を少年の胃に流し込む。

 途端、少年の身体の中で再び何かがぞわりと動き始める気配がした。

 全身にアリがはい回るような、むずがゆい感覚がそれに続き、腹部がカッと熱を持つ。

 だが、それだけだった。前回のような、猛烈な眠さや根拠のない幸福感、身体のしびれはまったく始まらなかった。

 少年はアーカイブと名乗る謎の声が勧めたように、まぶたを軽く閉じて全身の力を抜き、その場にへたり込んだ。


「師匠、これはあとどのくらい繰り返せば良いのでしょうか?」

「……そうだな」


 治療師はおもむろに後ろ手にかせをはめられた少年の二の腕を軽く持ち上げ、ぱっと手を離してだらんと垂れ下がるのを見やる。


「うむ、完全に力が抜けてるな。おい、おまえ、私の声が聞こえているか? 俺の顔を見ろ!」


 あごを持ち上げられ、とろんとした目つきで見上げる少年の様子を見て、治療師はあざけるように笑う。


「恐らくはあと二、三回といったところだろう。狂犬のような奴だったが、もはや逆らう気力もなさそうだな」


 その時、天幕の入り口が開き、背の高い男が入ってきた。少年の位置からは逆光で顔はまったく見えなかった。

 男はその場で立ち止まると、次の瞬間抜く手も見せずにいきなり長剣を少年の目の前に突き出した。

 白い光のように空気を切り裂いた切っ先が少年の眉間に触れ、皮膚が切れてぷつりと赤い血がにじんだ。


「陛下! 何をなさるのでっ!!」


 治療師たちが慌てるなか、男はさらに少年に歩み寄る。天幕の隙間から漏れた光が男の顔を照らし出し、奇妙に歪んだ表情があらわになった。サンデッガ王だった。

 だが、少年はぼんやりとした焦点の定まらない目つきのまま、刃先を避けることも瞬くこともしなかった。


「うむ。恐怖のかけらも見せぬか。理想的だ!」


 嬉しそうに笑うサンデッガ王。


「それで、これはいつごろ仕上がる?」

「恐らく、あと二日ほどで」

「うむ。それまでに記憶が戻ればさらに好都合だが?」

「できるだけ手を尽くします。陛下」

「ああ、いい知らせを期待してるぞ」


 それだけ言い残し、さっときびすを返すサンデッガ王。彼の後を追うように、治療師と助手も連れ立って天幕を出て行った。

 再び一人きりになった薄暗い天幕の中。

 それまでとろんとした表情を浮かべていた少年は不意に真顔に戻ると、その額から冷や汗がしたたり落ちる。


「びっくりしたーっ!」


 思わずつぶやき声が漏れた。


『よく耐えましたね、サイ。さすがにあれは私も意表を突かれました』


 それまで気配を消していたアーカイブが脳内で感嘆の声をあげる。


『いや、耐えたというより、いきなりすぎて反応できなかっただけなんだけど』

『いえいえ、それでも大したものです。どうですか? ヘクトゥースの影響は残っていますか?』

『あ、うん?』


 少年は唯一自由に動かせる首を確かめるようにくるくると回し、


『いや、大丈夫。めまいも意識の濁りもない』


 断言するその目には、しばらく薄れていた力が再び戻ってきた。


『それよりアーカイブ、驚いた拍子にいろんなことを思い出した。僕の名前はサイ、サイプレス・ゴールドクエスト。思い出したよ。全部、ね』

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