第161話 虜囚

「どうにかして使えるようにせよ」


 サンデッガ王は何でもないことのようにさらりと命じた。


「こやつはアルトカル魔法長官をしのぐ魔法の使い手だ。今ここで始末するのは惜しい。うまく取り込めれば形勢は一気にわがサンデッガに傾く」

「しかし陛下、いつ、どんなきっかけで記憶を取り戻すかもわかりません。制御できない魔道士はあまりにも危険——」


 それまで黙って頭を垂れていた治療師が、たまりかねたように口を挟む。だが、サンデッガ王は血走った目でぎろりと治療師をにらみつけると、それ以上の発言を封じた。


「使えるようにせよ、と言ったはずだ。方法を考えるのはおまえの役目だろう? ヘクトゥースを使え。薬漬けならたとえ記憶が戻ったとしてもどうにでもなろう」


 王はそう言い放つと、それ以上は興味を失ったように立ち上がり、護衛の騎士をともなって天幕を出て行った。


 後に残された弩弓兵長と治療師は、顔を見合わせて肩をすくめる。


「そんなことが可能なのか?」

「さて、それは何とも……」


 たずねられて、治療師は自信なさげに首を振った。


「私はこれまで、子供に臨界量のヘクトゥースを処方したことはございません。さじ加減を間違えればそれだけで死に至ることもある薬ですし……」

「そ、それはならんぞ! 陛下は生きて使えるようにせよと仰せだ」

「とりあえず、少し時間をもらえますかな。他国の先例をひもとき、豚か犬を使って薬の量を試しましょう。ドラク帝国あたりならあるいは知見があったのでしょうが、滅んでしまいましたから……」

「ああ、だが急げ。城を失って以来陛下は大変焦っておられる。下手に期限を損ねられると——」

「心得ております。私もむざむざ殺されたくはないですからな。では……」


 そう言い残すと、治療師はまるで面倒ごとから逃げるようにそそくさと天幕を出て行った。

 取り残された兵長は、杭に縛り付けられたまま、それでもなお反抗的な目つきでにらみつけてくる少年をあらためて見下ろす。


「何だ、何か文句でもあるのか?」


 兵長は突然沸き起こった憤りにまかせて少年の頬を拳で殴りつける。無抵抗な少年の小さな鼻孔から鼻血がボタボタと垂れるが、それでも少年は一言も口を開こうとはしない。その沈黙と反抗的な視線は兵長に本能的な恐怖を呼び起こした。


「何だおまえは! この薄気味悪いクソガキがっ!!」


 彼は感情のおもむくまま、無抵抗の少年をめった殴りにする。結局、彼は少年の顔がパンパンに腫れ上がり、気を失ってしまうまでその拳を止めることをしなかった。いや、できなかった。




 サンデッガ軍は川向こうにタースベレデを望む丘の上、タースベレデ女王が立ち往生した、まさにその場所に陣地を移した。

 夜になるとたいまつを何百とともし、陣地の周囲まで赤々と照らし出す。さらに、眼下の広い河原を兵に絶えず巡回させて夜襲に備えた。

 だが、対岸のタースベレデに兵の気配はなく、あかりはまったく見当たらなかった。

 徹夜の警戒が三日、四日と続くうち、下っ端の兵士達はサンデッガ王の神経質すぎる警戒命令にうんざりしはじめた。王はタースベレデが今にも攻めてくるとしきりに言うが、どう見ても対岸に敵が潜んでいるようには思えない。


「うちの王様はどうしてこうも臆病なのかねぇ?」

「やっぱ、魔道士に一瞬で城をがれきの山にされたのが効いてるんじゃねえの?」


 サンデッガ軍は国王のひきいる直轄軍、地方領主のひきいる領主軍の混成部隊である。領主軍の王に対する忠誠心は低く、野営が長引くほどに王を軽んじてそんなグチをこぼすことが増えてきた。

 直轄軍の幹部は軍の綱紀を引き締めようと、少しでも王に批判的な言動をした兵士には最前線に送ると兵達に通告した。

 致死量ぎりぎりのヘクトゥースを無理やり飲まされ、まるでゾンビのような状態で最前線に立たされると知れてからは、表立ってグチをこぼす兵士もいなくなった。だが、兵の不満がなくなったわけではない。そして、行き所を失った兵のうっぷんは、しばしばもっとも弱い立場の者にぶつけられる。


「ペッ!」


 少年は血の混じった唾液を吐きだし、肩で口元をぬぐった。

 後ろ手に武骨な手かせをはめられ、杭に縛り付けられた状態は相変わらずだ。座ることも横たわることもできず、数日間水も食事も満足に与えられていない。

 腰と大腿の傷に巻かれた包帯にしみ出した血とうみが悪臭を放ち、日中暇つぶしに訪れる下級兵士が好き放題に殴るせいで、顔の輪郭はまるでジャガイモのようにいびつに腫れ上がっていた。


「僕に一体何の恨みがあるんだよ」


 もうろうとした意識の中、そうつぶやく少年の記憶は相変わらず戻らなかった。

 兵士達は少年のことを黒魔道士とか雷の悪魔と呼ぶが、少年は自分が恐れられたり憎まれたりするほどの魔道士だという確証を何一つ得られずにいた。もちろん魔法力のかけらすら現出することはできず、一方的な暴力にほんろうされた。

 むしろ、殴られて気絶する方がそれ以上痛みを感じなくてすむ分だけ幸せだった。

 

「もう、いっそのこと……」


 あまりのつらさに思いあまって、なんども自害を考えた。だが、自殺防止の特殊な口輪をはめられ、口を完全に閉じることができない。下を向くとだらだらとよだれが垂れるので精一杯歯を食いしばって上を向くのだが、そのしぐさが反抗的だと言いがかりをつけられてさらに殴られる始末だ。


「ああ、やっと日暮れか……」


 天幕の入り口から差し込む細い光が少年の目を射る。彼は顔を持ち上げ、薄目を開きながらつぶやいた。

 この時間、食事の配給があるためか、うっぷん晴らしにやって来る兵の姿がしばらく途絶える。

 殴られて気を失っていない時で少年がホッとできるのは、一日のうち、このほんのわずかな時間だけだった。

 少年は大きく息を吐き、体中の力を抜いて杭にもたれかかる。


「こんなことが、あとどれくらい続くんだろう?」


 捕らえられた最初の日、サンデッガの王を名乗る男が〝ヘクトゥースを使え〟と言っていた。

 自分の名前すら思い出せないのに、ヘクトゥースが恐ろしい麻薬であることは知っていた。何度も飲むうちに人格が破壊され、いいなりの人形になったり、心のタガが外れた狂戦士になるという情報もすらすらと出てきた。


「でも、何だろう、この気持ち」


 少年は不意に息苦しくなった。きゅんと締め付けられるように胸がうずき、なぜかとめどなく涙がこぼれた。

 ヘクトゥースをめぐって、とても辛いことがあった、そんな思いで胸が一杯になり、自分に近づいてくる人影に気づくのが一瞬遅れた。


「声を出さないで!」


 天幕の縁をめくりあげ、背後から忍び込んできた人影は素早く駆け寄ると少年の口を塞ぎ、耳元で短くささやいた。


「な、何?」

「これ」


 人影は少年の頭に何かを掛けるように手を動かすと、ボロボロのシャツの首元に小さなブローチのようなつるりとしたかたまりを落とし込んだ。


「いやー、見つけるの苦労したよ。あ、これ、緩めとくから」


 そんなセリフと共に手かせがギシリと音を立てて緩む。


「夜ふけまでもう少しだけ頑張れ」

「え? でも」

「見張りが緩むころにまた来る」


 正体不明の人影はそれだけ言い残すと、まるで地面に溶け込むようにふっと気配を消した。


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